念珠の開眼供養は必要ですか?

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念珠をご購入する際に、「開眼供養はした方がいいんですか?」という質問を受けることがあります。

これに関しては、「気になるようでしたら、お付き合いのあるお寺に相談してみてください。」という、ある意味逃げの回答をしておりました。業者として立ち入る領域ではないという意味でもあります。

また、「おたくで販売している念珠は、供養されているんでしょうか?」ということも、けっこう言われます。この場合は、「そのようなことは一切しておりません」と答えながら、なんとも言えない、とても違和感を感じていました。(詳しくはこの記事の最後の方で)

「長岡さんが供養してくれないんですか?」というのは、悪い冗談なのか、本気なのかよくわかりません。笑

実際にそういったことが心配でこのページにたどり着いた方も居るかもしれません。

最近、教えていただいたお話しから、とても自分なりに消化できましたので、そのことをお伝えしようと思います。

開眼供養とは?

とりあえず、読み方は?

仏教の世界では「かいげん」と読んで良いと思います。医学的に目を開くというときには「かいがん」になるでしょう。国語の先生ではないので分かりませんが、たぶん、そういう使い分けで大丈夫です。

仏壇の開眼供養なら聞いたことあるけど・・・

仏壇を購入すると開眼供養というの一般にやります。
魂(たましい)入れ、お性根(しょうね)入れ、御霊(みたま)入れ等、いろんな言い方があります。

たぶん魂のようなソフトウエアがインストールされるのは、仏壇という箱ではなく、仏壇に安置されたご本尊というハードウェアに入るという事だと思うのです。

浄土真宗では、魂云々という考え方をしません。
仏壇を購入のタイミングで同じようにお勤めはしますが、魂入れ等とは言わずに「入仏式(にゅうぶつしき)といいます。

これも新しく購入した仏壇に向かって拝んでいるわけではなく、そこにご本尊をお迎えしますよという儀式なんだと思います。

余談ですが、浄土真宗だけは仏壇屋さんでご本尊を購入するのではなく、ご本山のお下がりにこだわります。いうなればハードウェアにプレインストール済みのご本尊を迎えるということは、まるでアップルのパソコンの様です。各業者がそれぞれインストールするウィンドウズのパソコンとは違いますね。(なんのたとえか、ピンとこない方は軽く聞き流してください。)

魂って何が入っているのか

浄土真宗に関しては、すでにご本尊として認められた仏像なり、掛け軸なりをお迎えするにあたってやっているわけですが、その他の宗派で一般的に魂入れ等というと、目に見えない特別な何かが入れるための儀式のようにも聞こえます。

実際に、特別な力をお持ちで、我々のような一般庶民には見えない何かが見えるらしいという話は散見します。

それはそれで結構なのですが、逆に「僧侶のくせに見えないのか?」という批判も、同じくらい見聞きします。それはちょっと待ってください。

僧侶=霊能者ではありません。中にはそういう特殊能力を持つ方もいるのかもしれませんが、普通の僧侶はもっと、目に見える人間に寄り添った存在です。

では、形だけの儀式なのかといわれたら、現実的には儀式というはそういうものだと思います。悪い意味で、儀式の形骸化(けいがいか)と言われることもあります。

ただ、私たち人間の特性として、そこに2次的な意味を見いだして、やはり儀式は必要だという結論で伝承されることが多いです。例えば誕生日を祝うのもそうですし、地域のお祭りもそうです。山神様の祟りが怖いのでお祭りを存続すべきだと訴える人は今時いないでしょう。でも、地元のお祭りをなんとか盛り上げて存続させようという動きは、全国各地でみられます。

念珠の開眼供養

念珠にも、それぞれの宗派の親玉(母珠ともいう、一番大きな玉)には、ご本尊の意味合いを持たせます。

そうなると、家に置く仏壇がデスクトップ型なら、念珠はモバイル型と考えることもでき、やはりモバイル用の開眼供養(インストールの儀式)があっていいように思います。

まるで結婚式のよう

たとえば、真言宗だと・・

ある真言宗僧侶の方に、念珠の開眼供養について調べて頂きました。

その結果、実は念珠専用の開眼供養の作法はないということです。
(真言宗もたくさんの派がありますし、その他の他宗派についてはわかりません。こんな作法がありますという情報がありましたら、ぜひ、お寄せください)

それでも、その方なりに組み立てた内容でお勤めをしてくださり、当店で購入した念珠を供養してくださったというお話しを、後に聞きました。

はたして念珠は、開眼したのか?

実際に、念珠の開眼供養をしていただきました。

「念珠の開眼供養って結婚式のようなものではないでしょうか」というお話しを聞きました。

「結婚式は言い過ぎかも・・・」と後付がありましたが。笑

しかし、この「結婚式」の例えで、とても腑に落ちました。

つまり、こう言うことです。

結婚式を挙げるかどうかは自由で、挙げなくても夫婦にはなれます。
念珠の話に戻ると、開眼供養をしなくても念珠を持つことはできます。

ただ、念珠を持つ方のけじめとして一定の儀式をすることで、パートナーとして共に生きることの決意の機会とするわけです。

ですから、念珠の親玉を大日如来と見ようと、釈迦如来や阿弥陀如来と見ようと、それは、貴方自身があってこその念珠なのです。

念珠の開眼供養は、持つ人と念珠がそろって始めて意味をなす儀式なんだと思います。

開眼供養の問合せの違和感

冒頭に書いたように、「おたくで販売している念珠は、供養されているんでしょうか?」に対する妙な違和感についても、同じように考えると腑に落ちました。

持ち主の決まっていない念珠という「モノ」にだけ、魔法を掛けるように供養してあるというのは、なんだかとても変です。

再び結婚式のたとえを持ち出すと、「紹介してくれる彼は、結婚式を済ませてありますか?」と聞かれたら、それはやっぱり変です。貴方が人生を共にすることを決意して始めて意義が発生するのが結婚式です。

誰それのご祈祷済み数珠ブレスレット、みたいなものが高額で売られている場合がありますが、やはり同じ理由で違和感を感じます。

それに、高額なブレスレットを買えない人は、幸せになれないということになってしまいますからね。

安価な念珠を「命と同じくらい大切」と言う方もいます。
それぞれに理由があり、「私と念珠のお付き合い」という関係性があるからこそ、そういう想いになるのです。その関係性をなくして、絶対的な価値が「命と同じくらい大切」な念珠というのはありません。

まとめ

貴方あっての念珠の開眼供養(浄土真宗だと、本山で認められた念珠ということもありませんので「念珠の入仏式」というのもやっぱりおかしいか・・)

各宗派の僧侶の方はどのように考えるでしょうか。

たぶん、ほとんどの宗派で、定められた作法というのは無いと思いますので、檀家さんから相談があった場合、それぞれの宗派の考え方に合わせてアレンジしたお話しをして仏縁を結ぶということは、とても有意義な事だと想います。

こんな貴重な仏縁、やはり、あっても良いと思いませんか。
新しい念珠に、「これから末永くよろしくお願いします」という誠意を示す大切な仏縁です。

逆に、自分なりに大切に出来れば、何も不安に思う必要は無いと思います。
悪い意味で形骸化された儀式をしていないからといって、念珠が本物になれないということではありません。

気になった方は、お付き合いの住職さんにお願いしてみましょう。わざわざ「住職さん」と言ったのは、副住職さんや、お寺に勤められている僧侶の方は、こういうイレギュラーな事は立場上、お答えしづらい場合があるからです。

くれぐれも、長岡にお願いされても、何も出来ませんので悪しからず。

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