私が念珠屋になるまで・・改め その6

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この、自分史徒然も「その6」となりました。
なるべく話を膨らまさないように、念珠屋になるまでに直接影響した部分のみを書くようにしていますが、振り返ると、こんなにも様々なことがご縁となっていたことに改めて気付きます。

これまでの話を読みたい方は、こちらをどうぞ。

その1(学生時代)
その2(プログラマー)
その3(介護の仕事と営業職さがし)
その4(仏具屋との縁あって)
その5(粉本主義と営業職に違和感)

少し話が前後しますが、時は2009年の年末に戻ります。

仏具店を退職するまでに

お情け休暇

精神的な限界を感じて、突然、退職を願い出ました。

退職予定日は決まって引き継ぎ業務などに入るわけですが、社長は僕のあまりに弱った姿を見かねて、「2~3日旅行でも行ってきたら?」と休暇をくれました。

今思えば、少し休んで落ち着いたら、退職のこと考え直してみないか?という意味だったのだと思います。

お祝いでも休養でない微妙な心境ではありましたが、その言葉を真に受けて、北湯沢温泉に家族でささやかな1泊旅行に行くことにしました。

温泉に入り、美味しい夕食を食べ、小さな息子も大きなお風呂を喜び、楽しい時間でした。

子どもが寝てから、用意しておいたお酒の栓を抜きました。

ストレスの行く末は血を吐く始末

お酒をコップに半分くらい飲んだころです。
急に具合が悪くなって、夕食もろとも戻してしまいました。

それでも吐き気は収まらず、2回目からは血の混ざった嘔吐を4回5回と繰り返しました。

結局、苦しくてどうにもならなくなり、救急車騒ぎ。
やむを得ず、寝付いた子どもを抱えた妻に付き添ってもらい、となりまち壮瞥町の病院に搬送されました。

胃は、嘔吐の時に一時的に切れた出血があっただけで、大事には至らず、原因は不明。
点滴を打って病院で夜を過ごし、早朝にタクシーでホテルまで帰ってきました。

結局ホテルでは寝ることなくチェックアウト。

弱っているところに、ますます嫌な思い出を増やしただけの旅行でした。

考え直すどころか、自分のストレスの蓄積を実感して、逃げざるをえない状況でした。

退職

人生詰んだ

予定通り退職日を迎えました。

「その1~4」に書いたとおり、仕事を辞めるとこと自体は世間で言われるほど大変なことだという自覚がありませんでした。しかし、現実は厳しく、今までとは全く状況が違います。

所帯持ち、住宅ローンあり、30代、貯金なし。

辞める気があるなら、1年くらいかけて色々準備しておけば良かったのでしょうけど、とにかく「もうダメだ」と思ってから、1ヶ月半程度の期間で辞めたものですから、辞めてからどうしようかなんて、何も考えていません。

とにかくすぐに収入が必要でしたので、履歴書をあちこちに出しましたが、全く連絡がありません。

1社だけ電話がきました。「せっかくですが、ご家族を養えるほどの給料をうちではだせません」という返事でした。高収入など求めていませんでしたので、安くても仕事が欲しいと思って応募した会社です。

たぶんこういう状況を「人生詰んだ」というんだと思います。

図々しいもんで、死ぬ気などさらさらない

人生ゲーム上、チェックメイト確定したかもしれません。
しかし、ゲーム盤をひっくり返すということはできます。

職を失ったのはつい先日、次の給料日に最後の給料が振り込まれて最後の収入となります。
それでも、家族もいます。携帯電話もマイホームもマイカーもあります。来月くらいまでは食べるあてがあります。電気も水道も使えます。
今日の時点では、会社に通っていた先月と同じ生活をしています。

とにかく、のんびり良い仕事を探している時間だけがないのでした。

お金が必要

作戦変更

まともに就職活動をしていては埒が明かないので、とにかくすぐに現金を得る方法を考えます。
同時進行で以下の3つを実行しました。

1,派遣に登録。毎日携帯に来るメールにOKの返事をすれば明日の仕事が確保出来ます。
2,仏具関係の同業者、問屋や職人など仕入元に連絡。自分のスキルを示し、何か仕事をさせてもらえないか、声を掛けてみました。
3,個人事業主として、長岡念珠店を設立。

さて、何番の話から聞きたいですか?

皆さんが一番興味なさそうな1番、派遣アルバイトの話からしましょう。(笑)
僕にとっては人生を変える経験でした。

肉体労働

登録した先は、主にイベント設営の下請けをやる会社でした。コンサート会場などの会場作りに、ゼネコンの下請けで足場組みの「トビ」なんかが入るけですが、そのさらに足下に、鉄筋運びの奴隷が必要だということを皆さんご存じでしょうか。

床にパンチカーペットを貼るような仕事は比較的楽でしたが、立体的な構造物が多いイベントで、一日中鉄筋を運ばなければいけない日は、身体がボロボロでした。

18かハタチくらいの若いトビさんに、「おい、バイト君。3C(鉄筋の種類)20本運んどいて!」と、30代のおっさんがアゴで使われるわけです。

奴隷に名前はありません。必要な頭数が注文されるだけで、明日も同じ人が来るとは限りませんので。

たまに会社の段取りが悪く、4時間で奴隷解放になる日がありました。サラリーマン根性が抜けきっていない僕は、早く上がれることが嬉しかったのですが、バイト仲間は、「3千円か・・」と方を落とします。そう、当時は時給720円でしたからね。

彼らは、その世界から抜け出すことなど全く考えておらず、なるべく手を抜いて時間をやり過ごすようにゆっくりと動きます。

こんな世界があることを全く知りませんでした。消費する体力や怪我の危険を考えたらあまりに安すぎます。

今でこそ、首からパスカードを提げて、札幌ドームのイベントに念珠の出店しに行きますが、その裏では最低賃金で資材運びをしている若者がいることをいつも思い出してしまいます。

この肉体労働の経験は、後に自分を大きく変えていくきっかけとなりました。

ちいさな、ちいさな自営業の始まり

さて、2番、3番の話をしましょう。

営業職で会社を辞めると、多くの人が考えることあります。

今までのお客さんに直接売ったら、100%自分の取り分なんだから、けっこう儲かるんじゃないの?ってことです。

確かにそれは考えましたし、それを見透かすように、仏具関係の職人さんや問屋さんが辞めた噂を聞いて近寄ってきました。安く出してあげるから、仕事取ってこないかい?って話です。

北海道内の仏具屋でもそういう人は多く、会社を変えたり、独立しては、営業に来る人が後を絶たないという噂を、あちこちのお寺でもよく聞いていました。また、きまってそういう人は評判が悪く、結局仕事になっていないという事情もよく知っていました。

分かっていながら、同じように自分も1人で仏具を売っても、上手くいかないことは確実です。

とにかく、「仏具屋」として旗を揚げることは得策ではないということはよく感じていました。

そこで考えたのが「仏具屋」ではなく「念珠屋」というのはどうだろうか、ということです。

北海道で「仏具屋」といえば完全に買い手市場という印象でしたが、念珠のことになると、本業ではない仏具屋や本州から営業に来る法衣店に頼むか、または京都などの専門店に郵送でやりとりするくらいしかありません。

今まで築いたお寺との関係や仏教の知識も生かせます。北海道の仏具業者とも微妙にぶつかりません。

これが今の商売の原型となります。

念珠屋の名前

さて、商売を始めるにあたって名前を決める必要がありました。

多くの仏壇屋さんのように仏教的なキーワードを入れたり、「○○念珠堂」なんていうのは、いかにもありそうです。また、もっと今風の名前でもよかったのかもしれません。

でもその時に、営業職をしていて一番快感だった瞬間を思い出しました。社名ではなく「長岡さん」と呼んでもらったときに、なんだか妙に嬉しかったのです。店の名前ではなく、名前で呼ばれたい・・

「数珠」か「念珠」かでも迷いました。
北海道は、「数珠」と呼ぶ人が多いと思いますが、たまたまお付き合いのある方が「念珠」と呼ぶ人が多かったのと、なんとなく「念珠」の方が暖かみがあって響きが好きだったので、「念珠」を入れることにしたのです。

その後、誰が何を売ってるか・・ストレートにわかる「長岡念珠店」という名前に決めました。

 

開業資金

税務署に、個人事業主として届け出をだし、10日くらいの間に、リーフレット、チラシ、ホームページ等々の広告、名入りのポロシャツや作業服、店印や念珠の桐箱に押す焼き印等、それはそれはものすごい勢いで一気に用意しました。

利益の出せる受注などあるはずないのですが、あっという間に結構ハッタリがきく状況にはなりましたので、「長岡は、相当前から独立するつもりで準備していたんだ」と悪い噂が立ったほどです。

年商が億単位の仏具関係の同業者からも、「どうやって開業資金を用意したの?やっぱり親か?」なんて言われました。

はっきりいいましょう。こんなもの、わずか2~3万円のお金と知恵と工夫があれば、出来ることです。


当時、5千円くらいで作り自分で貼った看板は、8年経っても現役。
店舗無しで自宅対応というスタイルは今でも変わりません。

法人登記とちがって、個人事業主は届け出自体に費用は必要ありません。
「商売始めます」という宣言をするだけタダというわけです。

そして、最後のお小遣いとして除けてあった数万円で念珠の玉を買い、商品を作り始めました。

このように書くと夢の希望に満ちて、エネルギッシュに活動していたかのようにも思えてしまいますが、実際には全く違います。

昼間は、肉体労働で日銭を稼ぎ、深夜までパソコンでの作業をしたり、念珠を作ったり(今の10倍時間かかってました・・)していました。

念珠屋なんて商売になるはずない

何を隠そう、この時点で、念珠の商売を成功させてこれで食べていこうなんて1ミリも考えていなかったということを、皆さんにはお話ししておきましょう。

ではなぜ、念珠屋なんて名乗ったのか。

最初に書いたとおり、とにかく現金を得る手段でした。バイトの組み合わせだけでは、限界があったからです。
自営業なら、深夜でも早朝でも、バイトにでない時間はいくらでも働くことが出来ます。ただし、時給のバイトと違い、労力が報われるかどうかはわかりませんが・・

このような状況で、とうとう「長岡念珠店」がスタートしました。

・・・改め

この連載のタイトルは「私が念珠屋になるまで・・改め」でした。

「なるまで。」だったら、これで終わるのですが、次回を最終回とし、「・・・改め」をもって〆ることにします。

どうぞお楽しみに!

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