『納棺夫日記』 増補改訂版 青木新門著

青木新門さんの『納棺夫日記』 増補改訂版を読ませていただきました。

nokanhu

読んでそうで意外といままで手に取っていなかった本です。なぜ、このタイミングで急に読んでみたくなったか。

実は、お付き合いのお寺さん、現在は世代交代をしている前住職さんに声をかけてもらったことが始まりです。マメに日記をつづっている彼は、たまたま読んだこの本の感想として「青木さんの本を読んで長岡君の生き方を連想した」とつづっていました。律儀なもので、「勝手に名前を日記に書いてしまったので一応本人に断っておこうと思って」と、この本の話をしてくださいました。

そう言われてさっそく購入したのが、現行版であります。≪増補改訂版≫です。元来の3章の他に、本の大反響、たくさんの講演依頼をこなしたあとのメッセージ「『納棺夫日記』を著して」もつづられています。

さすが、「連想した」とお墨付きをもらっただけあって、期待した以上に大変共感しながら読ませていただきました。しかし、読み進むほどに連想したと言われたことの重圧を感じ、逆に自分の薄っぺらさに気づかせていただく縁にもなりました。

特に第3章は具体的な納棺エピソードを離れ、仏教用語の羅列のような章になっています。
浄土真宗がよりどころとしている大無量寿経ですが、弟子の阿難尊者がお釈迦さま光り輝いていつもと違うと言う場面が出てきます。それに気づいた阿難尊者をお釈迦さまは褒めます。そのやり取りをもって、親鸞は真実の教えだという確信を持ったと言います。そして、青木氏は親鸞のそのとらえ方を、「言い知れぬ感動を覚えた」と著書の中で書かれています。

親鸞という人の御書物、歎異抄や恵信尼文書等から垣間見られる言動をみても、論理破綻しないように漢字の使い方ひとつとっても非常に精巧に組み立てられている印象を受けます。しかし、時々、「お釈迦さまが光ったから」とか「夢で観音さまに告げられた」などと、支離滅裂とも思える話がでてきます。僕はどうしてもそういうところが腑に落ちなくて、懐疑的になってしまっていました。浄土真宗関係の本を読み漁っても、そういった部分はまるで触れていけないタブーのように美しい表現のままに流されています。

この度、この本を読ませていただき、それが実践に裏打ちされていること、つまり親鸞という人は「ひかり」を見た人であろうということ、青木氏もそうであり、妙に納得させられてしまったのです。お釈迦さまも「ひかり」であり、阿難尊者も本当に「ひかり」を見たんだろうと思います。

約20年もの間増版され続けているということが、読んでわかる内容と重さでした。初めに「連想した」等と言っていただいたのは、読み終わってみれば何とも恐れ多い。

きっと、読む人、立場によって、大きく感想が異なり、興味深さ、快感と苛立ち、気に止まる言葉も変わると思います。これからも変わり続けるであろう自分が、たとえば10年後に読んだらどう思うのか。時間をおいて、また読んでみたいと思っています。