念珠というメディアに刻む「想い」というソフトウェア

当店では、毎年200本以上の念珠修理の依頼があります。その内容は様々で、それぞれに事情があるものです。自分で使い込んで切れたものもあれば、中にはひいお爺さんの代から使っていたと思われるものを持ち込まれる方もいます。そんな中、一番多いパターンは、すでに亡くなっている自分の親が使っていたものというパターンだと思います。

年数でいうと3~40年くらい前のものです。「仏壇の引き出しに入っていてずっと気になっていたんだけど、綺麗になるかしら」という相談は多いです。もちろん綺麗になります。汚れて色あせているのは房の部分で、これらを取り換えると新品のようによみがえります。ただ、一つ問題もあります。

残念ながらこの時代の念珠はあまり良いものが流通していません。大量生産品が出回ったころで、経済的には潤っていた日本かもしれませんがその裏で神仏に対する価値観というのは薄れ大事なものを見失っていたのかもしれません。ですので、申しにくいことですが、同等品を買うより高くなり、通常ならば直すほどのものではないということも多く、その場合は正直にお伝えします。それでも、ほとんどの方は言います。「母が残したものですから。多少費用がかかっても直してください」と。

石自体に特別な力があるとか、何かのゲン担ぎになるというのは仏教的な発想ではありません。では、本当に意味のないただの玉が連なった道具かといえば、そうでもないのです。不思議だと思いませんか。直して使うようにと遺言したわけでもないのに、置きっぱなしの古い念珠がいつしか気になり、後に修理しようという気になって、さらには直したものは娘さんやお孫さんが使うようになります。まるでUSBメモリや光ディスクに情報が刻まれるかのように、しっかりとお母さんの想いが念珠というメディアに記録され、残された方がそのデータを再生しているようです。もっと言ってしまえば、先祖を供養するという行為も本来の仏教ではありません。でも、こうして、おばあちゃんの形見の念珠を孫娘さんがもってお参りに来られる姿を目の当たりにすると、残された念珠が尊いみ教えが相続する一つの縁となっていることは確かなのだと実感します。

 

僕自身は、日ごろ念珠をお薦めしておきながらこんな話もなんですが、仏教信徒にとって念珠は本当に用意する必要があるのだろうか、という疑問をいまだにぬぐい切れていません。それでも、こういう機会を何度も目の当たりにすると、その手助けができる念珠屋という商売も、なかなか良いものだなとしみじみ感じることがあるのです。

忙しい毎日で大切なことを忘れがちな現代人ですが、先達の想いは大切なデータとして念珠にバックアップされていました。念珠の修理は単なる物質的な復元作業ではなく、そのバックアップデータを再生する作業にも思えてなりません。