「正しい念珠」それってホント?

正しい念珠とは?

正式な念珠、正しい持ち方、念珠の本当の意味・・・

皆さんご存じですか?

僕も念珠屋という立場で、聞かれたらそれなりに説明はします。
縁のあるお坊さんに聞いてみることも有意義ですが、たくさんの宗派があって、言うこともそれぞれ違うと思います。
最近は、マナー講師という職業も流行っているのか、(アレ?っていうことも多々ありますが)持ち方や作法などを説明しています。

諸説あります

テレビでもよく使われる保険キーワード

ここ数年はお坊さんがよくテレビにでるようになり、仏教に関する話がでてくることもあります。お盆の期間には、お盆の語源などその由来に付いての話題も番組の中で話題になっていたようです。

ひとしきり説明したあとに「諸説あります」という断りを聞いたことがありませんか。

お釈迦さまの時代、2500年前とも、2600年前とも言われますが(それこそ、諸説あります。笑)そんなに昔のことを推測するわけですが、様々な方面から研究した結果ですので、必ずしも統一見解ではないことも多いのです。

ですから、一説を取り上げれば必ず「それはちがう!」という意見がでることも想定して、「諸説あります」という断りをつけておくわけです。

諸説あることにしておけばいいのか

という問題もありまして、いくつかある歴史的、宗教的見解のいずれかを正確に取り上げていればまだいいのですが、俗説や勘違いなどが定着してしまったような内容も混同して「諸説あります」と言っとけばOKみたいな感じは、最近のテレビ番組は情報収集がちょっと雑だなという感想を持っています。

真実の追求が正義か

一方で、俗説は全てやっつけて、真実だけが正義という考え方もあります。

これ、振り返れば僕自身けっこうそういうところがありました。

相手の間違い、論理破綻を指摘して、「どうだオレの方がものを知ってて偉いんだぞ、まいったか、ハッハッハッ」と思っていたかったのです。
今風に言えば、いわゆるマウンティングっていうんでしょうかね。

真実がいつも正しいとは限らない

方便(ほうべん)

方便とは、正しい方向へ導くための手立てです。

ですから、必ずしも本当の事ではないこともあるし、実在しないものもあることになる場合があります。

かつては馬鹿にしていた、迷信を、さも本当の事のように語る人。あの人は、真実を知らないで言ってるのではなく、方便の上手の人だったのかもしれない。ということを最近になってよく思うのです。

夜爪は、親の死に目に会えない

「夜に爪を切ると・・・」いろいろ起きる悪いことは地域によって違うみたいですね。
僕は「親の死に目に会えない」と子どもの頃に教わりました。

定番の迷信ですね。当然、爪切りの時間と親の死には科学的な因果関係はないでしょう。

そういう迷信があるんだよということと同時に、なんでそんな迷信ができたか、という話も母親の意見を小さい頃から聞かされてきました。

昔は電気がないから、暗くなってから刃物を使うのは危なかったこと、そして手元がよく見えないから囲炉裏の火の近くで爪を切ると、爪が火の中に飛んで、とても嫌な臭いがしただろうという母親の想像も含めて話してくれました。

迷信が成立した時代がいつかはわかりませんが、少なくとも、今よりずっと平均寿命の短い時代です。考えてみれば、「親の死に目」というくらいですから、子どもに対していう文句なんですね。

この迷信の本当の理由はわかりませんが、当時の生活においての実質的な不都合があったんでしょう。それを子どもに伝えるために、「親の死に目に会えない(他、地域によって違う)」という方便を用いたとも考えられると思います。

宗教がいう真実

もしかして、何もかもがおとぎ話なんじゃ・・

お経には何が書いてあるか。なぜ仏像は作られたのか。仏教以外の伝説や神話、どれもこれも、その世界の中では、「これこそ真実」のように語られますし、その真偽を問うことはあまり意味が無いように感じてきたのです。

「お経なんて全部おとぎ話でしょ!」なんて言ったら、怒っちゃう方がたくさんいると思いますが、僕の中ではそれは大きな変化で、そう思うことで素直に聞けるようになったと思っているのです。

疑って、疑って。

「そんなこと本当にあるのか?」「経典成立の歴史的な背景はどうだった?」「その方便を持って何をつたえようとしている?」と、なんとかタネ明かしばかりして仏教に関わると、タネを暴くたびに楽しみが減って、くだらない仕掛けは馬鹿にするようになって、結局仏教を味わうことが出来なくなっていた時期がありました。

しかもやっかいなのは、自分で暴いているつもりの「おとぎ話」の色眼鏡をいつの間にかかけて、別なお話が間違っているように見えたり、苦のサイクルに自らはまり込んでしまったりということもありました。

ホントの念珠とは

そんなのないのかも

念珠に関して、どれが正式ですか、これはダメなんですか?という質問は多いです。

これが正解といっても、一般的にそいうことになっているという程度の話です。

しかも、それは宗派、地域、立場、時代等様々な要因によっていくらでも変化します。
そいういうことは、真実とはいいません。

念珠に関する「正しい知識」を得たくて、ここまで読んでくださった方がいましたら、ごめんなさい。「正しい」なんて断定できる念珠の情報はありません。

今では、どのような念珠をどのような想いで持っても、それも、その方にとってのひとつの縁なので、否定する理由はないということも思うのです。

間違って欲しくないのは

だったら、「なんでもいいんでしょ?」ということではありません。

念珠との出会いもひとつの縁です。

宗派や予算、好みや材料が手に入るかという問題もありますが、とにかく、ある人が出会うべくして出会うという面があります。

今後も、念珠屋として情報提供はしていきますし、研究も続けていきます。
明らかにでっち上げのような俗説も多いのが念珠の世界ですが、そういう見方もあるということを俯瞰しながら、ご要望にあう念珠を提供したいなと思うのです。

念珠の制作者であり、念珠コンシェルジュでありたいと常々思っていますが、そう考えると、念珠コーディネーターという役割もとても重要ですね。

あなたにとってのホントの念珠

それは、一覧表を見ればわかるというような単純なものではありません。

本に書いてある念珠の話は、専門家としてできる限り勉強したいと思っています。
それでも、あなただけの念珠を持つ意味があるのであれば、それを無視して「ホント」は見つけられないと思うのです。

「念珠」という「方便」を持って伝わる仏教がきっとあります。

いろいろな考え方がありすぎるというのが現実ですが、丁寧に「諸説あります」と言える念珠屋でありたいのです。