念珠の材料は、南の木から採ってはいけない。
念珠用の珠はどこからとるか
念珠の材料というのは、経典の中でも色々と謂われがつくものもありますが、今や無限にと言っても過言ではないほど、種類があります。
しかし、かつては、堅い材料を加工する技術はないか、あってもそれはとても手間がかかり高価なものだったことは想像に難くありません。
無患子は三年磨いても黒い
お経の中で最初に登場するのは、ムクロジ(無患子)です。経典の中では木槵子(モクゲンジ)と表記されておりムクロジ科の広葉樹といいますから、ほぼ同じ種類の植物を指していると考えていいでしょう。
お正月の羽根つき(といっても、なかなか通じない時代になってきましたが・・)の、羽の重りというとイメージでいるでしょうか。重たくて黒い種です。
「無患子は三年磨いても黒い」という諺は、本来の性質はそう変わるものではない、ということです。その喩えになるくらい丈夫で長持ちする素材なのですね。
無患子の実に入っている種というのは、念珠にするには大変都合のよい大きさと質感で、これに穴を開けて通すだけでとても立派なものになるのです。
ムクロジは中国原産ですので、サンスクリット語の原典に書かれていた木の実が必ずしも同じものを指しているとは限りません。漢訳されるときに三蔵法師や貿易商のような人による言い伝えか、文章から想像して一番近いのが木槵子のような木の実だろうということだったのだと思います。
古い書籍のなかで、 大変興味深い記述をみつけました。
念珠の珠を採るにあたり、東、西、北はそれぞれに良いことがあるが、南の木からは採ってはいけないというのです。
これは、面白い。
仏教らしからぬ、なにか風水みたいな話じゃないですか。
経典を開く
見つけるのもなかなか大変
その根拠になりそうな経典が、どうやら『大方廣菩薩藏文殊師利根本儀軌経』という、とても長いタイトルのお経にあるようで、最近はその方角に関する部分を探していました。
お経というのは巻物になっているわけですが、この 『大方廣菩薩藏文殊師利根本儀軌経』 は、なんと20巻。知恵とテクノロジーを駆使して検索していくわけですが、なかなか見つかりませんでした。20巻まで探してもとうとう見つからず他の経典の可能性も考え始めたのですが、キーワードを変えてもう一度1巻から漁ったところ、とうとう第11巻で、該当の箇所を発見しました。

では、その一説を皆さんにご紹介しましょう。
大方廣菩薩藏文殊師利根本儀軌経
若得西枝子爲珠者
「もし、西の枝から珠をとって念珠を作った者は・・」
ということになるかと思います。「若」というのは、中国語でもそのまま「若い」という意味もありますが、ここではたぶん、英語の「if」に近い意味で使われていると思います。
得法成就當獲財富
「法成就(ほうじょうじゅ)」というのは、加持、祈祷などの効き目があらわれたことです。ついでに財宝も獲ることができるようです。
若得北枝子爲珠者
続きまして、北の枝から採ってきた場合です。
當得聖賢愛重夜叉及一切部多皆悉降伏
至於天人乃至乾闥婆緊那羅羅刹等皆悉降伏
賢者や菩薩に愛されて、夜叉や鬼神など悪いものは全て降伏するのです。
若依儀軌作諸事業
一切正事皆得増益
復得一切成就所求皆得
事業をやれば何もかも上手くいって、利益が増えます。
仕事運アップということですね。
若得東枝復見彼枝有果見在
若得彼子爲珠者
では、東の枝から採ってくるとどうでしょうか。
蛇足ですが、ここで言い回しを少し変えているのがお洒落に感じます。
凡所修行持課行人得持明成就
作種種事皆得圓滿
持明成就の「持明」というのは、梵語の長句をそのまま読誦することです。真言、陀羅尼のことですね。
それらが上手くいって、それぞれの事業も満足いくものになります。
專心受持亦獲長壽
「受持(じゅじ)」は、単に仕事を「受け持つ」ということではなく、仏教用語では佛陀の教えを銘記して忘れないことです。
そうすれば、幸福で長寿でいられるということです。
西、北、東と良いことばかりですね。
では、いよいよ、南の場合を読み解いてみましょう。
若得南枝長而無葉
彼雖有子不可爲珠
最初から言い回しが違います。葉がなくて長い枝であっても、その種を採って念珠を作ることはできないというのです。
若爲珠者害衆生命
故彼持課人當一心遠離
見るらかに良くなさそう漢字が並んでいますね。
身も心もよくなさそうです。
彼南枝若不長及有葉
さらに追い打ちを掛けるように、さっきとは逆に、葉があって長くない枝の場合も書いてあります。
彼或有子堪爲珠者
彼持課人亦須捨離
何以故猶能殺寃家故
ますます物騒な字もでてきました。
どうやら南は良くないらしい
ここでひとつ気になる事があるのです。
北海道で念珠を作っている僕としては、はっきり言ってほとんどの木は南方から取れるんですよね。それらは全部不吉だと言われても困ります。
逆に考えると、本州の人は北海道の木の念珠を買うと良さそうです。
結局、その人達がどこに住んでいるか次第?
では、インド人にとって南の方角って・・想像をしてみます。
ローカパーラ
ローカパーラというのは、インドの神様のことで、ヒンドゥー教はもちろん、その後の仏教でも天部として、中国で漢字名になって出てきます。
それぞれの神様が守る方向が決まっているのですが、このあたりに、古代インド人の方角に関するイメージというのが反映されているのではないかなと考えたわけです。
それぞれの方角の担当は以下の通りです。
ウパニシャッドという仏教以前からあるインドの古代文献の名前、そして仏教の十二天としての名前を続けて書きます。
西:ヴァルナ(最高神)→水天
北:ソーマ(植物の神格化)→毘沙門天
東:スーリア(太陽神)→帝釈天
では、南は?
南:ヤマ(地獄、冥界の主)→焔摩天
もっと、親しい表記ですと、閻魔様ですね。

奇妙な一致
面白いことになってきました。
古代インドの神様の位置づけでも、南は地獄のイメージであったことがわかります。
つまりは、仏教が語られる前から、インド人はもともと南の方角によい印象がなかったのではないかと推測できるのです。
極楽浄土は西方といいますが、最高神ヴァルナが割り当てられているあたり、偶然でもないように感じます。
まとめ
僕はいままでに念珠の材料を採る方角を気にしたことはありませんし、この経典を読んだからといって南の材料を避けることはありませんが、とても興味深い文化ではありますね。
宗教というのは、土着信仰と融和することで広まったり、進化したりすることは昔からよくあることです。
たとえばテーラワーダ仏教や浄土真宗では「悪い方角を避ける」ということは、一番仏教らしくないように感じる方もいるかもしれませんが、お釈迦様のころから、このような方便があったということなんだと思います。
その他の宗派でも、南の木から採った念珠はダメなんて聞いたことがないと思います。
自分の感覚でついつい他の宗派、宗教を批判的に感じてしまいがちですが、日本で生活する私たちが想像するよりも、もっと深い意識、もっと長い(一生より長い)時間の感覚、気候、文化、社会背景にあわせて、様々なお経が残されたのでしょうね。