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『こころ』のKは、なぜ手首に数珠を掛けていたのか——終わりのない輪を数えるということ
文学と念珠

『こころ』のKは、なぜ手首に数珠を掛けていたのか——終わりのない輪を数えるということ

2026年10月10日

夏目漱石の『こころ』を、高校の教科書で読んだ方は多いと思います。「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という、あのKのことばを覚えている方もいるでしょう。

そのKが、数珠を持っていたことを覚えているでしょうか。

「彼は手頸に珠数を懸けていました」

場面は、下巻「先生と遺書」。先生が、学生時代に同じ下宿で暮らした友人Kのことを書き残しているくだりです。

彼は手頸に珠数を懸けていました。私がそれは何のためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つと勘定する真似をして見せました。

先生には、その意味がわかりません。Kは日に何度も、この数珠の輪を数えているらしい。けれども、輪になっているものを一粒ずつ数えていっても、どこまで行っても終わりはない——先生はそう思って、首をかしげます。

ほんの数行の場面です。けれども念珠を扱う者として読むと、ここには引っかかるところがいくつもあります。

Kは、真宗の寺の子だった

一つめは、Kの生まれです。

Kは、浄土真宗の寺に生まれた次男で、医者の家に養子に出された人物として描かれています。

浄土真宗は、数珠で数を数えない宗派です。明治の数珠の本『数珠鑑(じゅずかがみ)』(明治二十七年)は、真宗の立場をこう説明しています。

本宗に珠数を用ゆる意は、煩悩消滅の為にもあらず、又功徳善根を求むる為にもあらず、又念仏の数取に用ゆるにも非ず。

真宗の数珠は、仏さまを敬って手を合わせるための法具であって、念仏の回数を数える道具ではない、というのです。続編の『諸大宗数珠纂要』(明治二十八年)は、蓮如が数を数えなくてすむよう弟子珠を上へ詰めて房を結んだ、いわゆる「蓮如結び」のことも伝えています。

ところがKは、その数珠で、一つ二つと数を数えていました。

真宗の寺に生まれ、数を数えない数珠の文化の中で育ったはずの青年が、あえて数を数えている。漱石がどこまで意識して書いたのかはわかりません。でも私には、ここにKという人の生き方が、小さく、しかしはっきりと刻まれているように見えます。

Kは、家の宗旨から離れて、自分の「道」を求めた人でした。他力に身をまかせるのではなく、自分の意志と修行で精進しようとした。数を数えるというのは、自分の力で一つずつ積み上げていく行いです。手首の数珠を数えるKの指は、そのままKの生き方だったのかもしれません。

終わりのない輪を数える

二つめは、先生の「どこまで数えても終わりがない」という感想です。

たしかに、数珠は輪です。百八の珠を数え終えれば親玉に戻り、また同じ珠を数えはじめる。数えることそのものに、終わりはありません。

じつは同じことを、千年以上前の禅僧も言っています。中国・唐の趙州(じょうしゅう)は、年を尋ねられて「一串の念珠、数え尽くさず」——ひとつなぎの念珠は、数えても数え尽くせない、と答えたと伝えられます(『景徳伝灯録』)。

先生にとって、終わりのない輪を数えることは、意味のわからない行いでした。けれども、数える側からすれば、終わりがないからこそ数え続けられる、ということもあるはずです。ゴールに着くために数えるのではなく、数えているそのあいだに、心が一つのところにとどまる。数珠とは本来、そういう道具でもありました。

Kは、どんな気持ちで、どこでその指を止めたのでしょうか。物語の結末を知っている読者には、この問いが重く響きます。

数えることの、いま

今の私たちも、毎日いろいろなものを数えています。歩数、睡眠時間、通知の数、フォロワーの数。数えることで、自分を測り、励まし、ときには追い詰めもします。

数珠で数を数えるのは、それとは少しちがうように思います。数えた結果を誰かと比べるわけではありません。一粒、また一粒と指を送るあいだ、ほかのことを考えずにいられる。数は、そのための足場のようなものです。

数珠を繰ることは修行だ、と聞くと、体や心を極限まで追い込むものを想像する方が多いかもしれません。けれども、日本の外の仏教に目を広げると、少しちがう姿が見えてきます。

たとえばミャンマーなど上座部仏教の国では、数珠を繰ることは瞑想の一つとして行われています。私も、数珠はマインドフルな状態になるための道具の一つだと考えています。手の動きに注意を向ける瞑想の方法もありますが、それと同じように、一粒送るという単純な動作を一つずつ確かめていくことで、「今、ここ」にいる自分を少し離れたところから眺められるようになる。そう解釈すると、数珠にまつわるいろいろなことが、すっと腑に落ちるのです。

『こころ』のKの数珠は、物語の中ではほんの小道具です。それでも、真宗の寺に生まれた青年が、自分の手首で数を数えていたという一行は、数珠という道具の二つの顔——数えないで手を合わせる数珠と、数えながら心を整える数珠——を、そっと並べて見せてくれます。


参考

  • 夏目漱石『こころ』(1914年)——青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card773.html
  • 那須大慶 編『数珠鑑』明治27年(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/818694 )12頁
  • 那須大慶 編『諸大宗数珠纂要』明治28年(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/818703 )70頁
  • 『景徳伝灯録』巻10 趙州従諗章 大正新脩大蔵経 第51巻 no.2076(CBETA)
  • 当店調査「文学作品のなかに見る数珠 ― 青空文庫の用例から読む民俗と文化」