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通夜に響いた百万遍——銭形平次と荷風が書き残した「町内の数珠」
文学と念珠

通夜に響いた百万遍——銭形平次と荷風が書き残した「町内の数珠」

2026年10月10日

数珠は、一人ひとりが自分の手に持つもの。今ではそれが当たり前です。

ところが、古い小説を読んでいると、まったくちがう数珠の姿に出会います。町内のみんなで一つの大きな数珠を囲み、手から手へと回していく数珠です。その名を「百万遍(ひゃくまんべん)」といいます。

そもそも百万遍とは

百万遍は、念仏を百万回唱える行です。一人で百万回は大変ですが、大勢で輪になり、長い大きな数珠を回しながら唱えれば、みんなの回数を合わせて百万に届かせることができる。そういう考え方です。この大きな数珠を回す行事を、「数珠繰り(じゅずくり)」とも呼びます。

起こりとしてよく語られるのが、京都・知恩寺の話です。元弘元年(一三三一年)、京都に疫病が広がったとき、後醍醐天皇の命で知恩寺の善阿空円(ぜんあくうえん)が念仏百万遍を修し、疫病を鎮めたといいます。このとき「百万遍」の号とともに、五百四十の珠をもつ大きな念珠が下賜されたと伝えられています。今も京都の人が知恩寺のあたりを「百万遍」と呼ぶのは、この由来によるものです。

銭形平次の通夜には「百萬遍の講中」が来る

この百万遍が、江戸の町でどんな場面に現れていたのか。それを生き生きと伝えてくれるのが、野村胡堂の『銭形平次捕物控』です。

平次の事件には、たびたび通夜の場面が出てきます。『鉄砲汁』では、通夜の家に「町内の百萬遍の講中」がやってくる。講中(こうじゅう)とは、同じ信仰で結ばれた仲間の集まりのことです。『二本の脇差』では、平次自身が通夜の席に加わり、「百万遍の数珠を繰ったり、線香を上げたり」して過ごします。『蝉丸の香爐』には、「引つ切りなしに飮んで食つて、百萬遍も稱へて居た」という、なんともにぎやかな通夜まで描かれています。

悲しみの場でありながら、どこか町内の寄り合いのような空気がある。現代の、静かで短い通夜とはずいぶんちがいます。

(もちろん『銭形平次』は昭和になってから書かれた時代小説なので、そこに描かれた江戸は「作家が思い描いた江戸」です。ただ、胡堂が書いた当時の読者には、町内の百万遍がまだ実感のある風景だったのだと思います。)

荷風が聞いた「陰気な百萬遍の声」

もっと同時代の記録として読めるのが、永井荷風です。

明治四十二年(一九〇九年)の『すみだ川』には、場末の夜の音として百万遍が書き込まれています。「何処か近くの家で百萬遍の念仏を称へ始める声が、ふと物哀れに耳についた」。戸を閉めた町には「陰気な百萬遍の声」だけがはっきり聞こえてくる。また随筆『日和下駄』では、裏長屋から聞こえる「法華の団扇太鼓や百万遍の声」も、やがて消えていくだろうと書いています。

荷風にとって百万遍は、見る行事というより、聞こえてくる音でした。夜、どこかの家で百万遍が始まると、戸を閉めた町に念仏の声だけが響いてくる。下町の音風景の一部だったのです。

数珠は「町の持ち物」だった

こうした大数珠は、誰の持ち物だったのでしょうか。

手がかりになるのが、江戸後期に越後の鈴木牧之が書いた『北越雪譜』(一八三六年)です。雪の夜、橋から川に落ちて亡くなった女の幽霊を、庵の僧が見たという話を聞いた村人たちが、供養のために庵で百万遍を催すことになります。お茶うけは持ち寄ろう、餅もつこう、と話がまとまるなかで、こんな一言が出てきます。数珠は庵にはないから、「おてらのを借てもちゆかん」。

大数珠は、個人の持ち物ではなく、寺や町内、講が持ち、必要なときに借りたり回したりする共有の道具だった。数珠の歴史の中で、これはあまり語られない一面だと思います。

大正の初めの東京にも、その姿は残っていました。大杉栄は『自叙伝』で、知人の通夜に大勢の男女が「大きな珠数のような綱のようなもの」をぐるぐる回し、「ナムアミダー」と唱えていた光景を書いています。大杉は「百万遍」という言葉を使っていませんが、描かれているのはまさに数珠繰りの姿です。

消えていった音と、残った言葉

荷風が予感したとおり、町内の百万遍は、東京の暮らしの中からほとんど姿を消しました。通夜は葬儀場で行われるようになり、講もなくなっていきました。

ただ、言葉だけは長く残りました。青空文庫を調べると、「百万遍お辞儀をする」「お礼の百万遍」のように、「何度も何度も」という意味で使われる例が、明治から戦後まで大量に出てきます。行事が身近だったからこそ、比喩として通じたのでしょう。

では、大数珠そのものはどうなったのか。

当店のお客様のお寺にも、大数珠を今も保管しているところがあり、見せていただいたことがあります。浄土宗のお寺と、真言宗のお寺でした。宗派の決まりというより、その土地の風習から受け継がれてきたものなのだろうと思います。

ただ、そのお寺で今も数珠繰りが行われているのかどうかは、私にはわかりません。正直に書いておくと、私自身、大数珠を作ったことも、修理したこともありません。もし、古くからの檀家さんや先代のご住職で、百万遍の数珠繰りに加わった思い出をお持ちの方がいらっしゃったら、ぜひお話を伺ってみたいと思っています。

自分の数珠を自分の手に持つ。それは今では当たり前のことです。でも、かつては町のみんなで一つの数珠を回し、一人では届かない数を、声を合わせて満たしていた。そう思って手元の数珠を見ると、少しだけ、その輪が大きく見えてきませんか。


参考

  • 野村胡堂『銭形平次捕物控』「鉄砲汁」(初出『オール讀物』1938年12月号)、「二本の脇差」(同1937年12月号)、「蝉丸の香爐」(同1937年2月号)——青空文庫
  • 永井荷風『すみだ川』(初出『新小説』1909年12月)、『日和下駄』——青空文庫
  • 鈴木牧之『北越雪譜』初編 巻之下「雪中の幽霊」(1836年刊)——青空文庫(底本:岩波文庫)
  • 大杉栄『自叙伝』——青空文庫(底本:『大杉栄全集』第十二巻、現代思潮社、1964年)
  • 知恩寺 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E6%81%A9%E5%AF%BA
  • 当店調査「文学作品のなかに見る数珠 ― 青空文庫の用例から読む民俗と文化」