長岡念珠店長岡念珠店
「数珠」と「念珠」は何がちがうのか——名前に込められた二つの動作
念珠用語辞典

「数珠」と「念珠」は何がちがうのか——名前に込められた二つの動作

2026年10月10日

「数珠と念珠って、何がちがうんですか?」

店先でも、お電話でも、よくいただく質問です。先に答えを言ってしまうと、指しているものは同じです。お葬式やお墓参りで手に掛ける、玉を連ねたあの輪のことを、どちらの名前で呼んでもまちがいではありません。

ただ、それで終わりにしてしまうのは、少しもったいない気がしています。二つの名前には、それぞれ別の「動作」が込められているからです。

「数える珠」と「念じる珠」

まず、字をそのまま読んでみます。

「数珠(じゅず)」は、数える珠。 「念珠(ねんじゅ)」は、念じる珠。

天台宗の法話では、念珠という名前について「仏さまを念じながら、そのお名前をお唱えする時に、何回お唱えしたかという回数を計算するために使うことからきた」と説明されています(天台宗「お数珠の意味は?」)。つまり、念じることと数えることは、もともと一つの動作の表と裏なのです。

お念仏やお題目を、心をこめて唱える。唱えながら、指で珠を一つ送る。そうやって、心の動きと手の動きを結びつける道具が、数珠であり念珠です。

ちなみに読み方は「じゅず」が一般的ですが、「ずず」とも読みます。天台宗の法話でも「お数珠」を「おずず」と呼ぶことが紹介されています。書き方も「珠数」「誦珠(じゅず)」「寿珠」などいくつもあり、『新纂浄土宗大辞典』はこれらを同じ項目にまとめています。

インドの名前は「唱える花輪」

では、もとの言葉は何だったのか。

『新纂浄土宗大辞典』の「数珠」の項には、梵語(サンスクリット語)として japa-mālā(ジャパ・マーラー)と akṣa-mālā(アクシャ・マーラー)が挙げられています。

japa は「低い声でくり返し唱えること」、mālā は「花輪・首飾り」を意味する言葉です。直訳すれば「唱えるための花輪」。日本語の「数珠」より、むしろ「念珠」に近い名前だと私は感じます。数を数える道具である前に、唱えることのための輪だった、ということです。

(同じ辞典には、『牟梨曼陀羅呪経』では「鉢塞莫」と音写されている、という記述もあります。一般には「ハソマ」と読まれています。漢字になった瞬間に、意味がまったく読めなくなるのが面白いところです。)

なぜ百八つなのか——『木槵子経』の物語

数珠の起源として、よく引かれるお経があります。『仏説木槵子経(もくげんじきょう)』です。

天台宗の法話によれば、ある国の王が、盗賊や疫病に悩まされて心の休まる日がなく、お釈迦さまに救いを求めました。お釈迦さまは、木槵子(もくげんじ)という木の実を百八つ連ねた数珠を与え、この珠を繰りながら仏の名を唱えなさい、と説いたといいます。

『新纂浄土宗大辞典』はこの経の一節を、「もし煩悩障、報障を滅せんと欲する者、まさに木槵子一百八を貫くべし」と引いています。百八という数は、百八の煩悩に対応している、というわけです。

もう一つ、同じ辞典は『陀羅尼集経(だらにじっきょう)』の、経を誦し念仏する行者は「手に数珠を執るべし」という一節も紹介しています。数珠は飾りではなく、修行の手順の中に組み込まれた道具だったことがわかります。

ただ、今の数珠がすべて百八つというわけではありません。天台宗の法話にもあるように、五十四、三十六、二十七、十八など、百八を倍にしたり割ったりした数の数珠があります。手首に掛ける短い数珠も、この考え方の延長にあります。

とはいえ現代では、手の大きさや手首の太さに合わせたり、デザインを優先したりすることが多く、略式の数珠や腕輪念珠では、主玉の数はあまり意識されていません。

日本に来てからの数珠

日本では、奈良時代にはすでに数珠が記録されています。『新纂浄土宗大辞典』によれば、『法隆寺資財帳』や『東大寺献物帳』に記載があり、正倉院の宝物の中にも多くの数珠が遺されています。

おもしろいのは、その後の日本語の中で「数珠」という言葉が、仏教の外にまで広がったことです。

以前、青空文庫の作品を「数珠」「念珠」で横断して調べたことがあります。すると、明治以降の翻訳者たちが、キリスト教のロザリオを「数珠」「念珠」と訳している例がいくつも出てきました。芥川龍之介の南蛮ものには、ロザリオを指す「こんたつ」という言葉も登場します。日本人にとって「玉を連ねて祈りに使う輪」は、宗教の垣根を越えて「数珠」だったのです。

「数珠つなぎ」という言い回しも、同じ根から生まれた言葉です。車や人が一列に連なる様子を、あの輪になぞらえた比喩ですね。

結局、どちらで呼べばいいのか

使い分けに厳密な決まりはありません。

仏具店の品名では、宗派の正式な形のものを「本式念珠」、どの宗派でも使える簡略な形のものを「略式数珠」と呼ぶことが多いように思います。とはいえ、これも業界の慣習の範囲で、どちらが正しいという話ではありません。

長岡念珠店が「念珠」を選んだ理由

当店の屋号も、たとえば「長岡数珠店」でよかったのかもしれません。それでも私は「念珠店」を選びました。

ひとつには、起業した当時、浄土真宗とのお付き合いが多かったことがあります。浄土真宗だから「念珠」と呼ぶ、という決まりがあるわけではありません。ただ、浄土真宗は浄土宗と同じようにお念仏を大切にしながら、その数にはこだわりません。同じお念仏でも、浄土宗には、「三万浄土」「六万浄土」と呼ばれる日課数珠に表れているように、一日に何万遍と数えて称えることを目標にしてきた文化があります。

日蓮宗でも、お題目を数えることが影響しているのか、多くの場合「数珠」と呼ばれているように思います。(日蓮聖人の遺文を調べてみると、「念珠」という言葉は『日蓮大聖人御書全集』に三か所出てきますが、どれも念仏者など他宗の人が持つ珠を指しています。漢字の「数珠」は一度も出てこず、仮名の「ずず」が一か所あるだけです。聖人がご自身の数珠をどう呼んだかは、遺文からはわかりません。それでも、相手の持つ珠を「念珠」と書いているところを見ると、当時から何かしらの呼び分けがあったのかもしれません。)

正直に言えば、検索される言葉の多さだけで考えるなら、「数珠」のほうが圧倒的に有利です。それでも「念珠店」にしたのは、私自身の肌感覚として、この道具は「数える道具(カウンター)」というより、「念じる珠(想いを乗せるもの)」だと感じていたからです。

(「珠数」という書き方のことや、宗派・地域ごとの呼び方の傾向は、「数珠?念珠?珠数?」〜呼び方の違いと、私たちが「念珠店」にした理由〜でも紹介しています。)

とはいえ、この二つの名前は、道具の「両面」として覚えておくのがいいと思っています。手で数える珠であり、心で念じる珠である。どちらか片方だけでは、数珠は成り立ちません。

次に数珠を手にしたとき、一つ、珠を指で送ってみてください。その小さな動作の中に、インドから続く「唱えるための花輪」の記憶が、ちゃんと残っています。


参考