数珠(念珠)を持つ意義は、義務か、嗜みか、志か。

文脈によって、念珠と数珠が混在しますがご了承ください。

格好悪いので数珠を捨てた

最近は、スリランカ上座仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老のお話が大好きで、よく本を読んでいます。スマナサーラ長老が日本で数珠をもらったが、格好悪いので捨てたというエピソードがありました。
それを生業にしている僕としては結構ショッキングなお話です。

数珠を使う? 使わない? 世界の宗教

インドで発祥した仏教が日本まで伝わってきた北伝仏教では、数珠が発達しました。

その起源はバラモン教の頃までさかのぼるらしく、仏教特有のものではありません。キリスト教のロザリオも、イスラム教のタスビ、フブバ、ミスバハ等と呼ばれるものも、起源は同じと言われています。(複数の起源があるという説もあります)

それに対し、現在でも南伝のスリランカやタイの仏教では数珠を使いません。
スリランカ人であるスマナサーラ長老も使う習慣がないでしょう。それに、おまじないや気休めの道具は仏教には要らないというような雰囲気すら感じられます。


※店主がミャンマー式の瞑想用に作ってみたプロトタイプ念珠

日本の数珠

日本の仏教では多くの場合数珠を大事にします。
それは僕の解釈では、仏像を大事にするのと同じようなものだと思っています。

お釈迦様の時代に仏像に向かって拝むようなことはしてないはずですからね。文化と宗教を一緒にしてはいけないということも言われますが、いまさら仏像を拝まない仏教を日本で浸透させるのは難しいでしょう。

そう考えると、数珠も仏像も方便としていただき、大切にしながらも形だけ整えて終わることなく、その向こうにどんな教えがあるのか耳を傾けるご縁にしたいものです。

「数珠 必要」で検索する若者

最近では、都市部を中心に、法事や葬式でも数珠を持たない人が増えてきました。

単に意識が薄いということもあるかもしれませんが、驚いたのは、「宗教にはまっている人だけがもつ特別なもの」「趣味の問題なので持つ必要はない」という意見が、当たり前のようにネット上で見られることです。

「必ず必要」などと書いているのは、よく読んでみると、単に数珠を販売することを目的とした業者だったりします。

それを見た若者は、当然持つ必要がないと思うでしょうし、見つけた記事の内容によっては、持つことに嫌悪感すらいだくかもしれません。

結局、持つべきなのか。

そこで、念珠屋としては、「ぜひお持ちいただきたい」と言いたいところですが、スマナサーラ長老のお話に戻ると、持たないことも否定できません。もちろん、意識無く持たないこととは意味合いは全然ちがいますが。必要ないという考えの方は尊重されるべきです。

というような一連の思考の末、必要ないという方がいれば、まあ必要ないんだなと見守るしかないわけです。

葬儀や、お寺の法要に参る際、持つか持たんかどっちがいいんですか?と聞かれたら、持った方がいいと答えます。

それは、義理や決まり事という意味ではありません


※カラフルな子ども念珠

仏教以外の信仰がないのであれば持ってもいいのでは?

上座部仏教のように戒律を重んじて生活してない私たち日本人が、仏様に対して手を合わせる時くらい、失礼がないよう心を正装するという意味で、念珠を手にかけてもよいのではないでしょうか。

そして、わかりやすいたとえだと、大切な方に会うために「背広にネクタイ」をした方がいいのと同じように考えてくださいというお話をします。逆に言うと、ノーネクタイでも失礼がないように完璧なおもてなしができている人は、格好にこだわる必要がないとも言えます。とても難しいことですけどね。

持たなきゃダメなの?って考えていた方は、参考にしてください。

※この記事は2015年に投稿され、2017年に加筆修正されております。