いただきます ごちそうさま

私達日本人は、食前の挨拶として「いただきます」といいます。
仏教では、その意味を「命を”いただく”行為」と解釈し、法話になることもしばしばあります。

かれこれ20年近く前のことだと思いますが、富山県の公立小中学校で、給食の前に日直が「合掌」と号令をかけてから「いただきます」をしていたことから、特定の宗教活動の禁止を定める教育基本法九条違反だという論争があったのをご存知でしょうか。当時、合掌が宗教行為か、古き良き習慣かということはずいぶん討論されたこととは思いますが、現在はおそらく公立学校で、合掌していただきますを強制するところはないでしょう。
もちろん、キリスト教、イスラム教、その他仏教系以外の新興宗教の方もいらっしゃいますので、合掌は、公の場所で強制するものではないかもしれません。

現在、「いただきます」の意味を調べると、「上位のものからもらった物や神仏に備えた物を飲食する際にも、頭上に載せる動作をして食事をしたことから、飲食する意味の謙譲用法が生まれ、食事を始める際の挨拶となった」という説明が見られます。
かつては宗教儀式だったことからの派生で「いただきます」という言葉が生まれたということで、命をいただく云々という解説はありません。それこそ、特定の宗教的な意味を持たせることを、うまくかわしているようにも感じます。

人間が自己中心的にものを考えれば、人間の糧となるものは、殺そうが食べようが、それは謙って感謝をする行為ではないのかもしれませんが、鳩も王様も命の重さは同じという有名なジャータカ物語にも登場するように、仏教的に考えると、命を維持するために、他の命を潰すことで成立する食事とはなんとおぞましい行為なのかと振り返るのであります。

仏様を拝むときの合掌は正式には念珠をかけますが、一般的には「いただきます」で念珠をかける方は少ないと思います。本堂での参拝、お葬式や法事での焼香がフォーマルな合掌と仮に定義すると、「いただきます」はカジュアルな合掌とも言えるかもしれません。ただ、それは感謝の念が軽くて良いという意味ではなく、それだけ合掌の心が生活に深く浸透している証拠ということでしょう。
うちの子どもをたちを連れて近くのお寺をお参りした際に、本堂で合掌するといつもの癖で「いただき・・あっ」と声を出してしまった長男のエピソードは笑い話ですが、本堂でも食卓でも同じ思いで合掌できるのは子どもの純粋さ故かもしれません。

ちなみに、「ごちそうさま」は漢字で書くと「御馳走様」であり、馳走とは、走り回ることであり、この食事が並ぶまでたくさんの方が食材を運び、集め、手間暇かけて料理してくださったことを指します。そのご苦労の前後に丁寧語の御と様を二重につけて「御馳走様」になったそうです。

我が身となっていただく命、ここに食事が揃うまでの限りない縁に感謝していただく日々の食事。
粗末にせずに大切にいただきたいものですね。

うんちく

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