猫と念珠

先日、亡くなった猫のために、人間用と猫用のお揃いの念珠を作りたいとご要望があり、制作しました。

僕自身はペットを飼ったことはないのですが、動物は好きです。

最近はペットでも立派な葬儀をして、ペット霊園があってということは聞きますし、猫のための念珠という発想はそろそろ出てきても自然な流れかとは思っていました。

すでに亡くなった方へ

ご依頼主の一つ目の疑問は、すでに亡くなった者(今回の場合は、たまたま対象が猫)の念珠を制作するのは、おかしいことかということでした。

これは、対象が人間の場合でも、過去に同じようなご相談がありました。

「如在」という言葉があります。

じょさい

これを、「じょさい」と読めば、辞書にはこのように書いてあります。

気を遣わずに、いい加減にすること。十分な配慮をせず、手抜かりがあること。また、そのさま。

あまり良い意味ではありませんね。この場合は、「如才」と同じ意味で使われ、同じ音のため、いつの間にか混同するようになったものと思われます。

「如才無く」などという逆説的な使われ方をして、如才がないわけですから、気が利いていて手抜かりが無いということです。

仏教の話で「如在」を見かけるときには意味が違います。

にょざい

「如在」を「にょざい」と読み、意味はレ点をつけて、「在(い)るが如し」と解釈します。

いかにも仏教用語のような言葉ですが、出所は仏教ではないと思います。

『論語』の中に登場する一節、

『祭如在、祭神如神在、子曰、吾不與、祭如不祭』

の中にある「祭如在」から来ているのだと思います。

この場合の「祭」とは、先祖を祭るという意味です。つまり、あたかもそこに、亡くなった先祖がいるようにお祭りしましょう、ということです。

仏教由来ではなく、おそらく朱子学からきた言葉なんでしょうね。

そこに「いるがごとく」、念珠を用意したいというのは、そうした意味では良い事だと思いますし、そうしたいと思うのも自然なことだと思います。

方便とグリーフケア

この「如在(いるがごとし)」という考え方は、亡くなった方にあえて執着していくわけですから、本来は仏教的な考え方ではないかもしれません。

しかし、日本人の価値観にはとてもマッチしたので、おそらく仏教を広める上でも方便(ほうべん)として引き合いに出されるようになったのだと思います。

方便とは、正しい道へ導くための手段のことです。

遺された者が仏法を聞き、そして伝えていくために、先祖や両親の死ということほど強烈なご縁はありません。

日本では、年忌法要(3回忌、7回忌など)が大切に勤められています。
「亡き方を偲んで」という表現がよく使われますね。

追善供養という考え方がない浄土真宗では、「その方をご縁に、私たちが仏法に遇わせていただきましたね。」などと、言うなれば「方便の種明かし」をするでしょうし、その他の宗派では、「いますがごとし」の考え方をそのまま大事にして、故人の好きだったものをお供えに上げるというのもよいご縁となるのかと思います。

グリーフケアの観点で見れば、そのように亡き方と関わって、遺された者の心が少しずつ癒されていくというのは、亡くなったのが人間であれ、猫であれ、変わらないと思うのです。

亡き方への念珠

話が遠回しになりましたが念珠の話に戻りますと、故人用として念珠を用意するということは、「あり」なんじゃないかというのが僕の考えです。

念珠というのは、法具であり、信仰の対象となるものではありません。
だから、故人用の念珠に向かって拝むという行為は違うと思います。

しかし、宗教という形がない精神世界において、目で見るもの、手で触れるものというのは、とても重要な役割を果たしています。

念珠を買ってくださったお客様から、「気持ちの問題と分かっていても、私には手に取って握れるものを、近くに置いておきたい」というお話しを聞いたことがありますが、まさにそういうことです。

今は亡き大切な方も、一緒になって仏道を歩み、導いてくれる標しとして、合せて念珠を用意するのは、良いことなのではないでしょうか。

動物に念珠は

商売的にはすでに誰か売ってそう

猫に念珠。

猫にも念珠にも興味が無い方からすれば、なんとも不可解な発想かもしれません。

余談になりますが、人間でも必要ないという方もいますのでね。
もちろん、神道なり他の数珠を使わない宗教を信仰しているのでしたら、必要ありませんが、葬儀には仏教のお坊さんを呼んでおきながら、数珠は必要ないという主張もあるのでいささか疑問を感じています。

その話はさておき、近年はペットブームで、しかも空前絶後の猫人気です。

そんな中で、ペット用品は驚くほど充実していて、ペットフード、ペット用の洋服やアクセサリーはもちろん、家電、介護用品、保険まであります。

あまりに人気なので、猫用の念珠を作ったら売れるだろうなということは、僕も考えたことがあるくらいですから、すでにどこかの業者が売っていそうですよね。

しかし、「売れるだろう」というのは、ほとんどの場合良い商品にはなりません。

心無い商品でお金を取るのが悪いということ以前に、コンセプトがブレた商品というのは、結局売れもしないというのは、商売をやっている方なら感覚的に知っていることかと思います。

長岡念珠店として、この「動物用念珠」の問題をどう解釈するかは、重要なことです。

仏教的に猫とは、人間とは

動物用の念珠。

「猫に小判」「豚に真珠」「馬の耳に念仏」というながれで、「猫に念珠」ということわざがありそうですね。

仏教的に、考察してみましょう。

まずは、猫が仏教思想の上ではどういう存在かと考えました。

ぱっと思いつくのは猫に限らず、動物は「畜生」ということです。

うちの可愛い猫ちゃんが「畜生」なんていうふうに言われたら、飼い主さんは気分が悪いかもしれませんね。

俗語としての「ちくしょー」というのは、あまり良いシチュエーションでは使われません。おじいちゃんのくしゃみやコウメ太夫を連想した方は、心穏やかな証拠です。笑

仏教の話では人間以外を区別されることをしばしば見かけます。

有名な三帰依文の冒頭も、「人身(にんじん)受け難(がた)し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。」から始まります。

つまり、私たちは縁が巡ってようやく人間の身になれたので、こうして仏法を聞くことができるようになりましたというのです。

仏教では迷いの世界を六つの道で表すことがあります。

天道(てんどう)
人間道(にんげんどう)
修羅道(しゅらどう)
畜生道(ちくしょうどう)
餓鬼道(がきどう)
地獄道(じごくどう)

このランキングからいうと、私たち「人間」は迷いの世界の中でも、上から2番目。まだ、ましなほうという位置づけになりますね。

そして、畜生道というのは残念ながらワースト3に入っており、地獄、餓鬼、畜生については、三悪趣(または三悪道とも)という風に、とくに悪い世界と分類されています。

それならば、仏法を聞くことができるようになった私たち人間に念珠は必要だけど、それが叶わない畜生に念珠は必要ないか?といいますと、そう単純な話でもないと思うのです。

私の中の精神世界

上の6つの道のことをまとめて六道(仏教読みでは「りくどう」)といいます。

その迷いの世界をぐるぐると生まれ代わって繰り返すのですが、その迷いの無限ループを抜けていくのが悟りの世界ということですね。

そのあたりについては、詳しく書かれている仏教書がたくさんあるので、興味がある人は掘り下げてみてください。

以下は僕なりの解釈です。
仏教哲学の専門家にきけば正しいかどうかは、わかりません。

一見すると、6つの世界があって、人間である「私」という存在は、上から2番目に分類されている。あーよかった人間で・・・ということになりそうですね。

そう考えてしまうと、たしかに畜生道のものに念珠を与える必要が無いという発想になってしまいます。

ところが、「私」の内側にも六道があると考えているのです。

「ごめんなさい」が言えなかった
「ありがとう」が言えなかった
他人のために「どうぞ」と言えなかった

そんなこと、ありませんか。
憎しみあい、どれだけ欲しいものが手に入っても満足できず、自分の恥ずかしい姿に気付いていない。

それはまさに、私の中の、地獄、餓鬼、畜生だと思うのです。

今生は畜生に分類されてしまった猫の場合を考えてみますと、心の中まで全て畜生でみたされているのでしょうか。

もちろん畜生の要素もあるでしょうし、人間と同じように腹が立ったり、貪ることもあるかもしれません。

しかし、お腹がいっぱいになったら、他の猫の餌まで奪って蓄えることがあるでしょうか。自分よりも幸せそうな猫に嫉妬して悪意を抱くことがあるでしょうか。

そんな風に考えると、動物は、人間よりもよほど悟りの世界に近いようにも思えてきます。

「仏法聞き難し」という言葉に囚われて、仏法を理解できるのは人間、できないのは畜生と区別するわけにもいかなそうですね。優劣を付けるとすれば、たまたま人間の身を受けておきながら、心の中を見れば、動物の方が優れている部分もたくさんありそうです。

動物は、死んだらどうなるか

この辺りに関しては、非常にデリケートな問題で、かつ、解釈が難しい問題です。

ヒューマニズムが混ざれば、動物の魂は転生しない(または、途方もない時間がかかる)という主張もあるでしょう。

親しい仏教用語で語れば、動物は極楽浄土に行けるのかどうか、という問題もあります。

これは、たぶん、お寺さんも頭を悩ませているか、それぞれに解釈がブレないように理屈を定めているという方もいるかもしれません。

なぜかというと、近年は、ペット供養、ペット霊園ということもあり、そうなると、ペットのための読経をしてほしいという要望もあるでしょうし、うちの猫は死んだらどうなってしまうのでしょうか?と問われることも、珍しくないケースだと思われます。

飼い主とペットという関係

以下もまた、僕なりの解釈です。

縁起という考え方があります。
あらゆる事象は、関係性の上に成立っています。

うちには3人の子どもがおり、僕は子ども達から見れば父という関係です。
僕にも父がおりますので、父から見れば子になります。妻から見れば夫です。

子どもがいなければ、どんなに歳をとっても父になれません。

相手が、人間の言葉をまだ理解出来ない新生児であっても、子であり、そして親であります。

そうであれば、飼い主とペットの関係も同じように考えられます。

飼い主はよく「うちの子」なんていう言い方をしますね。
それは紛れもなく「うちの子」なんだと思います。

もし、子どもが亡くなるようなことがあれば、それは、言葉では言い表せない悲しみや苦しみを伴うことでしょう。

なぜそんなに悲しいかといえば、親と子という関係があるからです。
もちろん、交通事故等で幼い子どもが亡くなるようなニュースを見れば胸が痛みますが、正直に言えば、我が子の場合と同じ悲しみではありません。

亡くなった我が子が、その後どうなったのか。その子は、私に何を願っているのか。そう想いを馳せるのは自然なことです。

同じように、猫である「うちの子」が亡なくなったときにも、悲しみ、苦しみ、そして願いという想いがふつふつと交差することでしょう。

猫用念珠を念珠屋が売るべきか

もし、飼い主とペットの間において、「猫のためにも念珠を作りたい」というお話しがあった場合、その猫用念珠の意味を見いだすのは、あくまで、飼い主の方にとって、ということです。

仏教の方便は無限です。

ですから、飼い主と猫との間で、念珠というものに対して、特別な意味があるのでしたら、それは、僕の様な業者が間に入る隙はありません。

誰に言われなくとも、その念珠には特別な意味があるのです。

僕の立場でお話しすれば、技術的な面をクリアすれば、要望の通りに作る事はできます。

そして、猫と念珠を縁として、飼い主が仏教に触れる機会となれば、そんな素晴らしいことはありません。

それがダメだと言い始めたら、人間同士の関係を前提に行われる葬儀や法事も全て意味をなさないことになってしまいます。

葬儀や法事は故人が人間だからやるのではありません。

知らない人の葬儀はしませんからね。血縁がなくても、家族であれば、葬儀をするでしょう。家族でなくとも、然るべき関係性があれば、葬儀をすることはあるでしょう。

飼い主とペットも、家族です。
弔い、そして偲ぶに相当する然るべき関係だと思うのです。

ただ、業者のほうから「これは、猫用の念珠です。お一ついかかですか?」といって、商品を並べておくのは、非常に違和感を感じます。

これは、僕の中で、人間と猫を区別しているからだと思います。

飼っている猫に念珠を作ってあげたいというのは理解出来ますが、近所で見かける野良ネコにも念珠を持たせるべきだとは考えていません。

ところが、近所を通りすがる名前もしらない人間に対しては、機会があれば念珠を持って欲しいなと思います。

その感情が、正しいか間違っているかの議論は別として、僕はそのように感じています。

だから今のところは、「ペット用念珠」を頼まれたら、その方の想いに応えるために人間用と区別なく全力で作りますが、定番商品として並べて、こちらからおすすめすることはないと思います。

そう考えるのは、単にうちにペットがいないからもしれないし、将来、犬を飼うことになったら、犬用念珠はあっても良いかもと考えるようになるかもしれません。

今回のご要望は「猫用の念珠」
それこそ、いつもの注文と同じように、全力で作りました。

まとめ

すでに亡くなった方のために念珠を作る事、そして人間以外ために念珠を作る事は、ありか、なしかという事について書きました。

結論は、どちらも「あり」を示しました。

仏教はとても柔軟で裾野が広い教えだと思っています。

それでも、なんでも方便だとか、なんでも仏教的に正しく聞こえるように解釈をこねくり回せばいいということにはならないでしょう。

教理に基づいた解釈で正しいとか間違っているということは、その道の専門家の先生におまかせしましょう。

何かの理由で念珠が欲しいと思ったときに、その念珠には、必ず誰かの「念い」がついて回ります。それこそが、「念珠」と言われる所以なのかなということも感じるわけです。

贈りたい相手が健在であれ、故人であれ、人間であれ、猫であれ・・いろんな、ご縁があるかとは思いますが、相談していただいた折りには、ともに考えていきたいですね。