美しい念珠は罪か?

念珠をお求めいただくにいただくにあたって、とうぜん、宗派や用途などで制限はあるものの、最終的には「好み」というのがいちばんの選択理由になるわけです。

真面目な人は、ここで疑問に感じるかもしれません。

かわいいとか、好きとか、お洒落とか・・そんなことで、念珠を選んで良いのだろうか?という問題です。

念珠の外見はどうあるべきか。

念珠はアクセサリーですか?

「はい、アクセサリーみたいなもんですよ。」と、僕は言ってしまいます。

しかし、話が飛躍しすぎて、お坊さん達に怒られそうですので、順を追って言い訳しておきます。

近現代に書かれた念珠に関する専門書というのは、数えるほどしかないのですが、どの本の中で何度も「念珠は愛用すべきではない」「念珠は外見を飾るものではない」ということを言われております。

柔らかい言葉で言い換えると、アクセサリーの様に自分を飾ったり、好き好んで美しいデザインのもの、高価な物を求めるようなことはしてはいけないと言うことです。

宗源の念珠

宗源(そうげん)という方がいます。真言宗を極め、天台宗を経て、のちに法然様に帰依したといわれています。そうとう頭の切れる方だったんでしょうね。

法義にも詳しく、宗源さんを慕う人も多かったそうです。
そんな中、あるご婦人から大変高価な沈香(じんこう)の念珠をもらったというのです。
沈香とは、よく知られた白檀よりもはるかに値段の高い香木です。現代でも数十万円も出せば実際に作る事が出来ますが、産出量減り、年々値上がりしています。

宗源さんは、とても気に入ったこの念珠を愛用し、昼夜怠りなく念仏を唱え、熱心に修行に励んだといいます。

ところが、不思議なことにある修行者が突然現れ、「この念珠は修行の邪魔だ!」と沈香の念珠を奪い取って、火の中に投げ入れてしまいました。

このお話の、史実は本当かどうかはわかりません。ただ、「立派な念珠だ」、「他人より良いものだ」という慢心を戒めたエピソードなのでしょう。

やっぱりアクセサリー感覚はだめなんじゃ?

ダメというか、美しい素材や高価であることなんていうのは、仏教としての価値はないというこは言っておきましょう。たしかに、その執着心や慢心は、僧侶にとっては修行の妨げにもなりましょう。

では、一般在家の方、とりわけ仏縁の薄い現代の方に寄り添って、念珠の存在意義を考えてみましょう。

本来の、数取りの道具としての意味や、祈りの法具という儀式的な意味もとうぜんあるかとは思います。一般の人に念珠を勧めるいちばんの理由は、普段の生活をしている俗な時間と、仏様に合掌、礼拝するときの神聖な時間を区別する唯一のアイテムが念珠であると言うことです。

その神聖な時間をより大切に迎える為に、気に入った念珠を持つということは、素晴らしいことだと思うです。

正しい道へ導く手立てのことを、方便(ほうべん)と言います。

念珠は、存在そのものが方便だと思うのです。
「気に入った色柄、素材のものを身につけたい」
すでに仏道を歩んでいる修行僧にとっては障りになるでしょうが、一般の人が、仏縁に遇っていくためにはとても有意義なご縁になると思っているのです。

仏像、そして袈裟

多くの仏像はなんのためにあるのでしょうか。大変上等な細工がされて、本来は姿形がない仏様の姿を、わざわざ目で見て納得出来るように作っているのです。しかも、それらは大変美しく、高度な技で作れています。

袈裟ももともとは拾い集めたものや、使い古して伏せされたボロ布を縫い合わせて作ったものです。しかし、現代では上等な絹織りの地に豪華絢爛な刺繍が施されています。

臨済録の様な厳しいことを書かれた教えにあえば、必要ないものになるのでしょうが、世間一般的な目線で考えると、やはり仏像は立派な方が、お坊さんも綺麗な身なりでいる方がありがたいというものです。

立派な仏像や袈裟は、僧侶のエゴで発展したわけではなく、神聖さを求めた在家側の要望答えた形だったのではないでしょうか。(一言イジワルを言っておくと、今も昔も僧侶のエゴが全くないとはいいません。僧侶も人間ですからね。)

そのように考えると、念珠も同じように、より美しいもの、立派ものを求めたいという方には、方便としてぜひ勧めたいと思うのです。

気持ちがこもっていて大事にされるのなら、汚いものでかまいませんというのは、非常にハードルが高い理想のように思います。

したがって、念珠も、それなりに立派で美しいと感じるものを持つべきだと考えています。

念珠はアクセサリーの真意

かわいい念珠がほしい

方便として(仏教に出遇い、その縁が深まっていくために)、美しい仏像や袈裟と同様に、美しい念珠も有意義であることをお話ししました。

身につけた人の気運を高める道具、今風に言えば、「アガるアイテム」ですから、まさにこれアクセサリーに他ならないと考えるわけです。

華美なものを求めて喜んでいるのは本来の意味がウンヌン・・等というのは、もっと仏教との縁が深まってから、それぞれのタイミングで気づいていけば良いことであって、「かわいい念珠がほしい」という人に対して否定的になる必要ないと思っています。

お気に入りの念珠を縁に

お気に入りのお寺、お気に入りの僧侶に遇ってください。
自分に合った教えに遇えた人は幸いです。

いつの間にか御香の香りが身にしみてきたような人には、気に入った念珠に依存しない、また、次のステップがきっと開けてくると思います。

まずは、好きな念珠を楽しんで。
それが、念珠屋からの提案です。