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浄土宗の日課数珠——二つの輪で「六万四千八百遍」を数えるしくみ
宗派と念珠

浄土宗の日課数珠——二つの輪で「六万四千八百遍」を数えるしくみ

2026年10月16日

戦国時代の終わりごろ、宣教師ルイス・フロイスは、河内(いまの大阪府東部)で出会ったある老人のことを書き残しています。キリスト教の洗礼を受けたあとも、その老人は以前から使っていた数珠で「南無阿弥陀仏」を唱えていました。フロイスはその数珠を、「二つの半分のロザリオが、一方をもう一方に鎖のようにつないだようなもの」と描写しています。

外国人の目には、よほど不思議な形に見えたのでしょう。この描写を読んで、私はすぐに浄土宗の「日課数珠」を思い浮かべました。

二つの輪がつながった数珠

浄土宗の数珠の大きな特徴は、二つの輪がつながっていることです。この形の数珠を「日課数珠(にっかじゅず)」、または「輪貫数珠(わぬきじゅず)」と呼びます。

なぜ二つの輪なのか。それは、この数珠が念仏の回数を数えるための道具だからです。一日に何万遍もの念仏を唱えることを日課とした人たちにとって、指で数えるのは不可能です。そこで、数珠そのものを計算器にしたのです。

六万四千八百遍を数えるしくみ

明治の『数珠鑑(じゅずかがみ)』(明治二十七年)は、この二輪の数珠の数え方を図入りで説明しています。研究者タナベの整理と合わせると、しくみはこうなります。

  1. 四十珠の輪:念仏を一声唱えるごとに、一珠ずつ送る。一周で四十遍
  2. 二十七珠の輪:四十遍ごとに、こちらの輪を一珠送る。一周で 40×27=千八十遍
  3. 六つの記子(きし):千八十遍ごとに、房の小さな珠を一つ動かす。六つで 六千四百八十遍
  4. 十の記子:六千四百八十遍ごとに一つ動かす。十で 六万四千八百遍

40×27×6×10=64,800。二つの輪と房の小さな珠だけで、六万遍を超える念仏を数えられるのです。『数珠鑑』はこれを「日課称名正定業」と呼んでいます(この説明は時宗の二輪数珠の項に書かれていますが、浄土宗の日課数珠も同じ考え方です)。

(ちなみに、この「千八十」は、百万遍の大数珠の珠の数とも同じです。百八の珠を十合わせたのが千八十珠の大数珠だ、と『数珠鑑』は書いています。→「通夜に響いた百万遍」)

誰が考えたのか

この輪貫数珠を考えたのは、戦国時代、永禄年間(1558〜69年)の浄土宗の僧・称念(しょうねん)だと伝えられています。フロイスが河内の老人の数珠を記録したのが1562年ですから、時期がぴったり重なります。もしあの老人の数珠が日課数珠だったとすれば、生まれたばかりの新しい形の数珠を、外国人が書き留めていたことになります。(ただし、ここは私の推測を含みます。確かめるにはもう少し調べが要ります。)

「六万」と「三万」、そして「サラクリ」

『数珠鑑』によれば、浄土宗の日課数珠には「六万用」と「三万用」があります。

おもしろいのは、数え方にも二通りあったことです。

  • 一声に一珠を送る:これを「真諦念仏」という
  • 一声に二、三珠を送る:これを「サラクリ」という

続編の『諸大宗数珠纂要』(明治二十八年)は、正直にこう書いています。サラグリ念仏は六万遍と称しても、「其の実、珠数の玉は六万なれど念仏の数は二三万声なり」。それでも、うそいつわりの行とはしない、と。

数をごまかしているようにも見えますが、私はここに浄土宗らしいおおらかさを感じます。大事なのは数そのものではなく、毎日念仏を続けることなのだ、と。

同じ本には、数珠の格付けも載っています。千八十珠の大数珠が「上」、百八珠が「最勝」、二連の日課六万が「中」、日課三万が「下」。用途によって、いろいろな数珠を使い分けていたことがわかります。

また『数珠鑑』は、日課数珠は「唯だ数取の為」の道具だから、ふつうの数珠では越えてはいけない親玉を繰り越しても罪にならない、とも書いています。(→「親玉(母珠)とは」)

今の日課数珠——「三万浄土」と「八寸浄土」

ここまで、明治の本に出てくる「三万」「六万」という呼び方を紹介してきました。今の念珠店では、日課数珠は一般に、男性用を「三万浄土(さんまんじょうど)」、女性用を六万の形で仕立てています。

ただし、女性用を「六万」と呼ぶことは、まずありません。慣習的に、女性用の本連の長さを指す「八寸(はっすん)」という言葉で、「八寸浄土」と呼ばれています。女性用の日課数珠をお探しのときは、「八寸浄土をください」と伝えていただくと、念珠店にはいちばん話が早く通じます。

男性用の日課数珠「三万浄土」

男性用の日課数珠「三万浄土」

女性用の日課数珠「八寸浄土」

女性用の日課数珠「八寸浄土」

持ち方の基本

数を数えるときは、左手だけで繰ります。合掌するときは、数珠を親指に掛けて、手前に垂らします。

地域やお寺によって差は大きいと思いますが、今、浄土宗のお寺の法要で日課数珠を手にしている方は、私の肌感覚では三分の一くらいでしょうか。

数える数珠の、いちばん精巧な姿

数珠はもともと、念仏や真言の数を数えるための道具でした。その「数える」という役目を、いちばん精巧に形にしたのが、浄土宗の日課数珠だと思います。

一方で、同じ念仏の教えでも、浄土真宗は数を数えることをしません(→「『こころ』のKは、なぜ手首に数珠を掛けていたのか」)。数える数珠と、数えない数珠。どちらも、念仏とどう向き合うかという、それぞれの宗派の答えが形になったものです。


参考

  • 那須大慶 編『数珠鑑』明治27年(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/818694 )3・10〜12頁
  • 那須大慶 編『諸大宗数珠纂要』明治28年(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/818703 )58・63頁
  • George J. Tanabe Jr., "Telling Beads: The Forms and Functions of the Buddhist Rosary in Japan"(2012)
  • Rie Arimura, "The Origins, Spread and Interfaith Connections around the Prayer Beads"(Anales del Instituto de Investigaciones Estéticas, 2021)——フロイス『日本史』の記録の紹介