念珠が無料でもらえる?その深意とは。(前編)

この度、『不要な念珠を回収します&無料で差し上げます』というプロジェクトを立ち上げました。

前代未聞の切り口に、多くの方が、様々な立場からご意見を寄せていただき、大変有り難いことです。

この件に関しては特設サイトを設置していますので、なんの事だかわからないというかたは、まずは、こちらをご覧ください。

『不要な念珠を回収します&無料で差し上げます』
https://nagaokanenju.com/free/

なぜ念珠を無料で流通させようとしたか。このブログ以外では、深い意味までは書いていません。まずは、やりたいことを伝えたかったのでなるべくシンプルなメッセージにしています。

しかし、このブログを読んでくださる方は、マニアックな長文にも応えてくださる方だと信じておりますので、ここで、これまでの経緯やその想いを書いてみようと思います。

多くの人にブッダの智慧に遇って欲しい

「無宗教時代」の到来

「無宗教時代」という言葉はありませんが、言わんとしていることは十分伝わると思います。それほど多くの日本人は宗教に関心がありません。

無関心なだけでなく、宗教は怖い、気持ち悪い、胡散臭い等マイナスイメージを持った人も少なくないでしょう。

宗教の直接的なあり方ではないと思っていますが、わかりやすいところで葬儀に対する最近の意識を調べてみました。

Q「葬儀に際して、最初にだれに(どこに)相談しましたか」
親族・・76%
葬儀社・・54・3%
寺・神社・教会・・18・7%
日本消費者協会のデータ(2017年1月のアンケート結果)

人生の一大事が起きても、宗教は文字通り「2の次」という結果になっています。

また、葬儀の形式を問う質問では、無宗教葬、直葬、その他(散骨等)が、急増しているというデータを紹介している本もありましたが、みなさんの生活の中でも実感できる事だと思います。

この傾向がさらに、しかも急激に強くなっていくことは疑いの余地がないところでしょう。

これは、葬儀だけの問題ではなく、生活の中に宗教が無くなりつつあるということの現れでもあります。

その中でも仏教

なぜ僕が仏教にこだわるかということに関しては、ご縁があったとしか言いようがありません。これがたまたまヨーロッパで生まれ育っていればキリスト教に深い関心を寄せていたかもしれません。

いずれにしても自分の半生の中には、常に仏教が近くにあったこと、そして、それも振り返ってみればそうだった、ということを割と最近になって気づかされたということです。

ここでは詳しく書きませんが、少なからず仏教の中で育てられた、救われたという自覚を持てるようになりました。それは、世間でいう「信じるものは救われる」という一般的な神仏に対する思いとはずいぶん違うかもしれません。

ですから、もし「仏教を信じているのですか?」と問われることがあったら、全く信じていないし、むしろ疑ってばかりだと答えます。

それでも、人智を超越した合理性に納得せざるを得ないという思想大系に惚れ込んでいるのかもしれません。

そういう言い方をすると難しく聞こえますが、平たく言えば、仏教を知れば知るほど、自分が幸せになっていくことを実感しているのです。

自利から利他へ

自利行(じりぎょう)、利他行(りたぎょう)というのは、語弊を恐れず超簡単に言ってしまうと、自分のための修行か、他人のための修行かということです。

本来は僧侶の修行の時に使われる尊い言葉で、僕のような俗にまみれた人間の生き方に自利も利他もないことは承知の上です。

最近の自分の心を覗いてみると、会う人すべて敵だと思っていた卑屈な頃と比べて、「幸せバロメータ」は確実に増え続け、今や満タンになって溢れてきました。

別に仏教でなくても幸せな生き方はたくさんあると思います。
無宗教を名乗っている人が、よくよく吟味した上で仏教は自分に合わないというならいいのですが、もし、単に家庭環境、時代、社会の風潮のせいでチャンスが無かっただけだとしたら、この溢れた幸せ、「仏教ってなかなか良いと思うよ」ということだけでも、自分以外の人にお伝えしたいと思うのです。

そのことを、かっこつけて自利から利他と呼んでみました。

出家・得度しなさい

これ、ほんとよく言われるのです。言葉を聞き慣れない方もいるかもしれませんが、早い話が「お坊さんになれ」とお坊さんに言われるのです。

結論からいうと今もお坊さんではありませんし、今後なる予定もありません。

なぜなら、この仏教のおかげで溢れた「幸せバロメータ」をお裾分けするにあたり、僧侶になった方が得策だという理由が見当たらないからです。

僧侶は組織化されており、しがらみが多いです。フリーの僧侶という生き方が無いわけでもないですが、そういう方が言う仏教は、僕を幸せにしてくれた仏教とは、少し味付けが違うように感じます。

不謹慎かもしれませんが、わかりやすく「ラーメンで幸せになった喜びを誰かに伝えたい」にたとえてみましょう。

フランチャイズの有名店は集客力もあり安心ですよね。でも、フランチャイズの店長になってしまうと、他社の宣伝はできません。独立したラーメン屋さんを立ち上げたら、近所の人は来てくれるかもしれませんが、やはり、他店よりも自分のラーメンが一番旨いということを言わざるを得ませんし、限界もあります。

このたとえで言うと、全国のラーメンを食べ歩いたラーメン通が、「ラーメンって人を幸せにしてくれるよね。この店なら味噌ラーメンがおいしいよ。」と語ると、ラーメンやさんが自分のラーメンだけを語るより遙かに影響力があると思いませんか。

僕は念仏もします。坐禅もします。法華経も読みます。真言も唱えます。
なぜなら、疑っているからです。口コミサイトを見て「あの店はまずいらしい」ということはしたくないと思っています。

そんな仏教のつまみ食いは信仰じゃないという批判は当然あるでしょう。
重ねて言いますが、信仰ではありません。信じていません。帰依していません。
あるのは、仏教に遇って幸せになったと感じている自分の実感だけです。
その実感の理由は、どうやら慈悲に包まれているからで、その事に気づけたのは少しばかりの智慧に遇えたからではないかと思っているのです。

念珠屋として何ができるか

念珠屋が出来ることは、念珠を作って売ることです。直すことです。
そして、確かにその1連ずつの念珠が仏教と密接な縁がある現場を何度も見てきました。

おかげさまで、当店の念珠の売上はずっと右肩上がりです。
でも、それはいつまで続くでしょうか。

どこかで遠からず、減少に転じます。それは、僕がどんなに「ビジネス」を頑張っても、仏教の法具である以上、先述した「無宗教時代」を思えば避けられない状況になってきました。ビジネスとしての側面を見れば、完全に斜陽産業です。おかげさまでライバルが増えることもありませんが・・。

ここ数年は、自分なりに本当に頑張りました。
しかし、それで見えてきたのは明るい未来ではなく、自分1人が(もしくは妻も含めて2人で)頑張った成果の限界というものです。

今でも、24時間一秒たりとも休んでいないとは言いませんが、仮に限界まで仕事に精力を費やしたところで、念珠の売上がほんの少し増えることはあっても、5倍、10倍にすることはできません。むしろ、維持することすら出来ず、努力とは裏腹に、近い将来減って行きます。

それは、お金が儲からないという話がしたいわけではなく、念珠をお届けできる人が減っていくこと、そして人生の中で仏教と接触できる人が減り続けるということを意味しているのです。

クリス・アンダーソン

WIRED(ワイアード)という雑誌をご存じでしょうか。
ビジネス、インターネット、ジャーナリズム、カルチャーなどの記事を集めた、世界的に有名な雑誌です。日本語版は20年前に休刊しましたが、現在はプリント版、デジタル版、ウェブサイトと日本語でも多様に展開されている人気雑誌です。

そのWIREDの編集長であるクリス・アンダーソン氏自身の著書も、何冊か日本語訳されています。

彼のある本を読みインスピレーション得て思いついたのが、「念珠を無料にできないか?」というアイディアです。

なぜ、アメリカのビジネス書から念珠が無料にという発想になったかというのは、本のネタバレにもなるので公の場では語りませんが、無料の念珠というプロジェクトをなぜ遂行したかということは自分の事なので語れます。

具体的には次の投稿に続きます。
『念珠が無料でもらえる?その深意とは。(後編)』