「いただきます」でパチン??

長男が「いただきます」や「ごちそうさま」の合掌の際に、手をパチンと叩くのです。
どうしてそうするのか聞いたら、幼稚園でそう習うといいます。(本当に習っているのか、友達がそうしているだけなのかはわかりません)
近所で外食した際にも、他のテーブルの親子連れで、「はい、パチンして」と拍手を即していたお母さんがいました。そういえばグルメ番組でも芸能人がパチンと手を合わせていただきますしている様子を見ます。元旦のテレビを見てると初詣では、神社かお寺かもよくわからず、お寺で柏手を打ってる方も結構います。意外と「合掌=パチン」は若年世帯を中心に定着しているのかもしれません。

いや、パチンが悪いというわけではありません。神道であれば「静座、一拝一拍手」が正しいいただきますの作法。ただし、厳密には合掌のように手をピタリと合わせては打っていけなく、拍手は右手を下にずらしてならします。
神道の流れがあるとすれば戦時中の名残なのでしょうか。少なくとも宗教儀礼とは別に「いただきます」が意味をなさず音だけが独り歩きしているように思います。

「いただきます」が単なる合図であれば、笛が鳴ったら食べなさいでもいいわけです。また、用意してくださった方への感謝の意だけであれば、これからいただく食事に向かっていうのではなく、その方に向かって「ありがとう」と言うべきです。
それぞれのご家庭によって考え方があるでしょうから他のやり方を批判すべきではありませんが、ウチの場合は静かに手を合わせて、いただく命に感謝申し上げるのが「いただきます」としています。

公園などで小さな子ども同士が遊んでいるのを見ていると、他の子が使っている遊具を無理やり奪いながら、目も合わせず「カシテ」。取られた子は、不満げな顔をして「イイヨ」。誰かを泣かせたら何が悪いかもわからず「ゴメンネ」、言われたら反射的に「イイヨ」。こんな雰囲気のことが多く、僕はとても気になっています。
もちろん、挨拶は大切なことで、特に小さな子に教えるには、その意味を理解させるよりもパターンとして言わせた方が早いかもしれません。しかし、そこに心が伴ってないとどうなるでしょう。「アリガトウ」をパターンで発していた子どもが大人になって、人生の中で「有り難くない」事態になれば、誰かを責めるようになるでしょうね。

やはりこんなところでも問題になるのが無宗教で、「お父さんが稼いだお金で買った」「お母さんが作ってくれた」ことを宗としていただきますをさせれば、自分で稼ぐようになって自炊すれば誰にも感謝する必要がないと勘違いしてします。私が今ここにいること、そのためにたくさんの命を潰してここに料理が並んでいること、その他にも無限に縁が重なって奇跡的に成立した「今から食事をする」ということは大変有り難いことです。
「世界中にこれだけの人間がいるのに、僕たちが出会ったのは奇跡だ」というのは、なにも恋人たちだけのセリフではありません。あらゆるものとの出会いは奇跡です。もちろん、食事をいただけることも。それを感謝せずにおれましょうか。

ぜひ、それぞれのご家庭の宗旨、宗教に合った「いただきます」をその意味をよく考えてしてほしいと願います。

書籍

前の記事

750年前のお手紙を読む
精進料理

次の記事

お精進の漬物