仏教のつまみ食いは、怒られるかしら

僕は念珠屋として、単に物品の販売に終わらず、念珠を楽しむことで仏教に触れていただきたいという思いがあるのです。
お坊さんではないので、もちろんそれは教えを伝えるという高級なものではなく、仏教を嗜むきっかけになればいいなと思っています。

おもえば、日本人は全身どっぷり仏教環境にいるにもかかわらず、意外とそのことに気づいていないことがあります。偏った葬式仏教や、宗教法人を持ちながらもほんのごく一部の心無いお寺のことがピックアップされて、仏教は「豊かに生きる知恵」ではなく、「死んだらお世話になるもの」、さらには、「できれば死んでもお世話になりたくないもの」というイメージになりつつあります。

一番の問題は、仏教に触れる機会がないことだと思うのです。
誰も会ったことがない宇宙人や未確認生物と一緒で、仏教も時代とともに、縁遠く、わからないもの、さらには恐ろしいもの、かかわりたくないものとなっていくような気がします。

宗派の壁というのは難しく、どうしても一方をとれば一方が間違っているかのように聞こえ、排他的になってしまう場合もあります。
これは、念珠に限ってもいえることで、それぞれに形も意味違い、一般在家の場合は規定がないことも多いのですが許容範囲も違います。
仏教に限ったはなしではありませんが、宗教は自分に合った教えに出遭うことが大切であり、どちらが正しいかという議論は全く無駄です。
また、「先祖供養」に偏ったことが語られることがありますが、これも仏教に触れるという意味では微妙です。儒教や道徳的な考え方に起因するもので、両親や家族を捨てて出家したお釈迦様が残した教えではありません。もちろん、葬儀をはじめ、お墓詣りなどで亡くなった方を偲ぶことを否定するわけではなく、それを機縁に、老いて病気していずれは死んでいくわが身と向き合えたらいいのですが、なんだか良いことをしたような気になって自己満足で終わっているようでは、仏教に触れているとは言えないと思います。
さらには、ある霊園のテレビCMでは、輪廻転生が美しいことのように謳われていますが、とても誤解の生む内容だと思っています。
世の中には、偏った情報、間違った情報があふれているのは、こんなことでも然りと感じます。

仏教を嗜好品のように考えては、宗教者の方からお叱りを受けそうですが、上手に嗜むと、とても豊かに生きられるような気がします。
しかし、昔から毎日朝夕のお参りは欠かさないという世代と違い、若い人が急に仏教漬けになるはずがありません。

きっかけは何でもいいと思っています。
たまたま念珠を用意しようと思ったことは、ものすごいご縁です。
切れた念珠を修理しようと思ったことも、大変なことです。
念珠に使う石を選びながら、房の色を選びながら、修理の品をお渡しをするときに、なるべくお話をして、その後、お気に入りの念珠をきっかけに、合わさらなかった両掌が合わさる機会が増えるといいなという思いで仕事をしています。

聞かなければ腹を立てずに済んだのにというときに、「知らぬが仏」という言いますが、本当の仏様なら、何を聞いても知っても振り回されません。
私たち凡人はそうなれないからこそ、ぶれないものを拠り所とすることで、振り回されても吹っ飛ばされないようにしがみついていたいのです。
僕はそんな風に仏教をつまみ食いしています。