たまには数珠のこと、ネチネチ書きます。
※(当ブログでは、念珠=数珠として書いています。文脈上の理由などから混在することがありますが、ご了承ください)
最近は実用的な記事が多かったのですが、当ブログは本来、タイトルの通り「念珠屋の考えていること」をネチネチ書こうと思っておりました。
たまにはネチネチ書きます
あっという間に月日は流れ、このブログも結構な年数が経ちました。
はじめの頃の記事を読み返すとお恥ずかしい幼稚なことも書いてありますが、それも歴史。
10年後にみたら恥ずかしいかもしれないことを、たまには書いておきます。
それで、念珠屋が・・・
ずっと考えていること
ブームもすでに過ぎ去りましたが、近年はパワーストーンが大流行しました。
その影響で、数珠、パワーストーン、ブレスレット等のアクセサリーの境目が曖昧となりました。
中には「金運アップ」「恋愛成就」「仕事が上手くいく」などと、素材に意味づけして、西洋の古代文明の謂れを寄せ集めたパワーストーンに乗っかって数珠を販売する業者も多くあります。
パワーストーンにもそれぞれに根拠があり、実際に効果があるということも大昔から実証されているので、それを否定してるわけではありません。いろいろ便乗して商売ベースになってしまったので問題が多いということはありますが・・
仏教以外のイスラム教やキリスト教でも数珠は使われるわけですが、そもそも数珠(念珠)とは何か?という根本的な問いの答えが出ていないのです。
そして極めつけは、
数珠って本当に必要なのか?
ということすら、自分なりの結論は出ていないのです。
日頃、平気な顔して売っておきながらなんですが、わからないのです。
どうせ売るなら、最高に良いものを適正価格で提供したいという気持ちはあります。
でも、それは仏教云々ということではなく、商売のスタンスとしての話です。
良い念珠にこだわること
それはある種の執着でもあります。仏教用語では「執着(しゅうじゃく)」と読みます。
執着は、苦しみを生みます。
数珠なんて、なんだっていい、どうでもいい、むしろ無くたっていいというのが、仏教徒としては正しい態度かもしれません。
しかし、興味関心が無い、数珠という物質だけでなく教えそのものを大切にできない人も同じように、「数珠なんてどうでもいい」と思っています。
だから一般的には、「数珠は大切に扱いなさい」と教えられます。そして、用意すべきものといわれますし、粗悪品よりも上等なものがよしとされます。
ここに、商売をする上で、根本的な矛盾を抱えているのです。
本来はどうでも良いことのはずなのに、良い物がいいと勧めているのです。
矛盾だらけの宗教観
そう考えると、数珠の販売だけでなく、大乗仏教の僧侶は、大きな仏教の流れを考えると根本的な矛盾を抱えて活動していること言うことも考えられます。諸行無常の縁起の教えであるにもかかわらず、ご本尊なり経典なりアプリオリな概念を設定しているわけですから。
「本当はそんなことにこだわってはいけませんが、例えば極楽浄土という世界があるということにしましょうか」
・・なんていう法話があったら、ぜんぜん説得力ありませんし、本質的に救われていきません。
だから、「阿弥陀如来は捨てず選ばず、必ずあなたの事を救います。」と、
「ただ座りなさい」と、「法華経のみが真実です」と、確信を持って説きます。
聞き入れた人は、そのことに感謝し、生きる道を正し、より深い人生を歩みます。
超宗派の賛否
どのような手法(いうなれば例え話の種類)で悟りを説くか、というのが宗派の違いです。
なので、自分と違う宗派について批判するのはおかしな話です。「例え話」が違うということは、拠り所としている経典が違うのです。どちらが先に言いだしたか、あっちの「例え話」は間違っているなどという議論はまったく意味が無いようにも感じます。
赤ちゃんに母親が物事を教えるのと同様、「よそはよそ、うちはうち」の言い方で、自分の赤ちゃんに伝われば良いのです。
最近では「超宗派」というキーワードを散見します。
文字通り、「宗派の垣根を超えて」という意味だと、解釈しています。
僕自身は、超宗派に賛同する立場をとりますが、それと同時に宗派の教えも、もっと大事に、深く布教していただきたいなという思いがあります。
なぜならば、念珠のこだわりと同じように、宗派のこだわりというのは、端的に教えを大切にできる手段になり得るからです。
超宗派を都合良く解釈し、「宗派とかよーわからんし」「何宗とか関係ないし」というのが標準的な態度となれば、たぶん日本の仏教全体が総崩れになっていきます。
例えば日蓮宗の方が法華経のことをこよなく大切に思うのは至極当然なことで、それだけ十分意義深い事です。その上で日蓮宗の立場を取りながらの超宗派の活動であれば、さらに多くの方のためになる有意義なものになると思います。
そう意味で、超宗派とは「宗派が無い人」の集まりではなく「宗派を超えられる人」の集まりであって欲しいと思っています。
これからの念珠は
うちで念珠を買う方には必ず宗派を訪ねます。
「こだわらない」という答えも多く、それはどっちの意味かわかりませんが、習慣や利便性から宗派による形があるということをご理解の上、お買い上げいただいております。
仏壇も、お墓も、お寺も減り、葬儀も簡略し、念珠を使う機会はどんどん減っていきます。
楽観的かもしれませんが、だからこそ、手軽に持てる念珠が最後の砦となるような気がしているのです。気がしているというより、世の中そのようにしていくのが自分の使命だと思っています。
僕自身が仏教と出遇い、今はとても幸せに生きています。
幸せになるために学んだ仏教であれば、それは利用しているだけかもしれませんが、いつの間にかブッダの教えの大いなる懐に抱かれているように、苦しみから解放されつつあります。
それでも本音は、どこかで自分は仏教徒ではないと思っているし、ただ嗜んできたに過ぎません。
争ったり、差別をしたり、ミサイルを撃ったりせずに、多くの人が念珠を持って、他人の幸せを願えるようになって欲しいと思っているのです。
新しいデザイン、より高品質な仕立、それは皆さんとのお約束で目下努力を続けます。
でも、その執着はいつか捨てられるのが本当の理想です。
その先の未来に向けてどんな仕事ができるのか、いつも夢みたいな事を色々考えているのです。