私が念珠屋になるまで・・改め その3

僕がどうやって念珠屋になったのか、その経緯を徒然書いています。

なんとなく過ごした高校時代。
一人暮らしの自由さに、気ままに遊びまくった大学時代。
そして、就職するも、社会の厳しさに心折れた20代。

遡ってお読みになりたい方は、その1その2もご覧ください。

この記事では、いよいよ仏教との出遇いに近づきます。

人間らしく生きたい

20代の後半にして、どたばたと会社を辞めてしまいました。

会社員としての自分を振り返ると、つらくて逃げたのは事実ではありますが、当時はまだまだ勢いもあり、挫折とは違う感覚でした。

エンジニア道

「会社が悪い」ということが一番の理由なら別な会社に入れば良いことです。
しかし、「業界全体がだめだ、社会が狂ってる」などと、勝手に妄想が広がってしまいました。

「じゃあ、どうしたいの?」とシンプルに自分自身に問い直してみました。

パーティションに囲まれて、一日中会話もせずにパソコンに向かっているのは耐えられない。黙々作業するなんて無理だ・・

色々、不満とか辛いこととかあったわけですが、要するにそういうことです。

(それって、大抵の技術職ダメですよね。)

なんとなく小さい頃から国語より算数の方が得意だったというだけで、工学部に進み、エンジニアに進む道しか自分では想像していませんでした。その末路が当時の僕の姿でした。

最初の方向転換

人とかかわる仕事がしたい!

かつて、ちょっとは憧れた幼稚園や学校の先生という道は、結婚して無職の青年が今から目指すには難しすぎました。

その頃、介護施設が乱立している時期で、介護職の募集が新聞の求人記事を埋めていました。

これだ!と思った僕は、少ない蓄えの中から費用を用立ててもらい、ホームヘルパー2級の資格を取りました。(現在は、「介護職員初任者研修」という名前に変わっています )

介護の世界へ

資格を取ると同時に、就職活動を始めたのですが、ここである問題にぶつかりました。

ちょうどこの頃、男女雇用機会均等法が改められ、求人広告に性別が書いてありませんでした。(現状、詳しいルールはわかりません)

圧倒的に女性の職場である介護の現場では、電話をした時点で「ごめんなさい、男性はちょっと・・」と断られます。

これは予想外でした。まったく無駄なルールが出来たものです。それなら、はっきり「女性募集」と書くべきです。

それでも、数打ちゃ当たるで、中には「男性を探してました」という施設もありました。

一発で採用していただき、すぐに第一線で働き始めました。

しかも、働き始めて早々、いずれは事業所の後継者ということも考えたいという話までされました。

それはそれは、学ぶことの多い仕事でした。

前職とはあまりに違う環境で、出社から退社まで一日中、利用者さんとも、職員とも話をしなければならないのです。

給料に関しては、ずいぶん下がってしまいましたが、それはもともと分かっていたことでしたし、お金と引き換えに人間らしさまで奪われるのはもう嫌でした。

思わぬ落とし穴

仕事自体は毎日楽しく、本当にやりがいもあり、これが天職だったんだなくらいに思っていました。

しかし、2ヶ月目にして大変な事に気付きました。

前職でそれなりにもらっていたものですから、税金が一気にきてしまったのです。

税金をまともに払うと、とても生活できないような金額(一桁万円)しか手元に残らないのです。

国保にすると扶養というのもなく、退職後の任意継続等ということも当時は勉強不足で知りませんでした。(新社会人のくせに退職の仕方を勉強しているひとなんていませんが・・)

社長にも相談したのですが、もともと給料もある程度優遇され、手取りが増えるように時間外の仕事もなるべく優先して入れてくれるという配慮は、すでにしてくれていました。

「これから伸びる市場ではあるけど、政府の財源が決まっているから、それに合わせてしか事業を拡大できない」ということもよく理解できました。

一人なら腹を空かせながら頑張るか、というくらいの話ですが、なんせ新婚だったもので、将来的にも家族を養う収入が見込めないというのは、続けるのが難しいという判断でした。

3ヶ月は研修期間ということでした。

正職員として迎えてもらってからではさらに迷惑を掛けてしまいますので、事情を話しすぐに辞めることにしました。

新婚プータロー

「プータロー」ってたぶん平成生まれには通じない言葉ですね。

新婚間もないというのに、ここに数ヶ月、職歴のない期間があります。

新妻は仕事へ出かけ、僕はすぐに仕事には就けず・・・。

とりあえず無難に働けそうな会社をいくつか面接を受けてみたのの、留年した上に、ころころ仕事を変えている人なんて、危険因子でしかありません。

平日の昼間に庭の草むしりをしていると、「あれ、もう盆休みに入ったのかい?」と向のおじさんに声をかけられると心苦しかったです。

その頃は急激にネットマーケットも拡大していましたので、「ネットで何か売れないだろうか」なんてちょっとイタズラしてみたこともあります。

日本の雑貨をアメリカのeBayで売るということも試しました。いくつか売れてこれはいけるかもと思ったのですが、面倒なクレーマーに当たってしまい、すぐに続けられなくなりました。

自分で商売を起すというのは、とても難しいことだと知りました。

営業への道

結局、自分は何ができるのかわからなくなりました。

技術職もだめ、事務職もだめ、人と関わる仕事がしたいと言っても、介護の業界では家族を養っていけない。

走馬灯のように今まであった人、心に残った言葉、こんな風になりたい・・が頭にうかびました。

それらが、ピーンと一筋に並んだときに浮かんだ言葉が「営業」でした。

今まで求人誌でも、絶対にあり得ないと思って読み飛ばしていた「営業職」の欄を徹底的に探し始めました。

未経験歓迎、好待遇、給料も努力次第で桁違い、実績の無いプータローにとっては、とても魅力的に見えたのでした。

チョコレート屋、外車ディーラー、宝石屋、パソコンショップ・・次々と面接を受けました。

今までとは違い「やる気さえあれば」ということで、過去の悪さも水に流してくれることも営業職の魅力でした。

営業職ということで、初めて「圧迫面接」というのも経験しましたが、もともと気に入らない上司にケンカを仕掛けてしまうようなタイプでしたので、ケンカ上等の対応で見事採用をいただきました。

そんなことも2社ありましたが、あなたの元では働きたくないという理由で、どちらも辞退しました。

仏具の営業だって?

そうこうしているうちに、求人誌で目に飛び込んできたのが「仏具の営業」だったのです。

営業自体が経験無いけど、何をどう売っているのかも全然わかりません。

失敗を重ねすぎて、さすがに慎重になっていました。
職安でも検索してみると、やはりその会社がでてきて、ホームページも簡単なものでしたが、なかなか興味深いです。

いけるだろうと思っていたことが、全て失敗してきた自分にとって、何も分からないと言うことは、逆に救いになっていたのかもしれません。

とうとう、その仏具店に履歴書を送りました。

「仏教」との直接的なご縁が始まったのはまさにここからです。

次の記事では、仏具の営業マンとしての経験を書きたいと思います。