法話を聴こう

「説教」と「法話」という言い方がありますが、ここでは意図的に「法話」を選んで使っています。現在でも、目上のひとから指導される(怒られる?)ことを「先輩に説教された」なんていう風に使いますけど、もともと高僧が学僧に対して教えを説くことを差していたようです。法話という言い方は、どうやら法然上人のころから言われるようになったようで、学の無い民衆にも、わかりやすく生活に密着した形でお話する説教のなかのひとつのスタイルを「法話」と呼ぶようになったようです。

発祥のインドから、大きく形を変えてきた日本の仏教ですが、僕はこの「法話」というスタイルがとても良いと思います。仏教は歴史が古いほど厳格だと思うかもしれませんが、必ずしもそうではありません。お釈迦様は、一部の学者だけしかわからないような難しい教えを嫌い、お弟子さんたちにわかりやすい言葉で法を説いたといいます。実は、お釈迦様の中でも、「こんな難しいこと凡人にわかるはずがない」と矛盾した感情を持っていたことは古い文献からも推測されていますが、それをわかるように話さなければ伝わらないと工夫されていた優しさがうかがえます。

仏教のイメージというとお葬式から始まり、お経あげたり仏像を拝んだりして祈祷や先祖の供養などをすることだと思っている人が多いかも知れません。ここからは僕の勝手な推測ですが、日本ではもともと「山神様の祟りじゃ~」「海坊主がでるぞ」というような、人間の力が及ばないところに働く力を畏れる信仰があり、先祖の魂をなぐさめるなんていうのは、中国の儒教の考え方が、見事に日本人のニーズにはまったんでしょうね。
ちょっと考えてみれば、お釈迦様は家族を捨てた出家者であり、お釈迦様本人の先祖云々という話はでてきません。お経は、お釈迦様の言葉を後の人が綴ったものですので、お釈迦様ご健在の時代にお経はありません。ましてや、代表的な仏像といえば釈迦像であるように、お釈迦様自身が仏像等をつくってはいません。

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当たり前の話を改めて分かりやすく聞く、そして「そうでありました」と頷く。法話というのは、良い意味で仏教の原点回帰でもあり、庶民でも仏教を嗜める、数少ない入り口です。写経や座禅を体験するのもいいと思いますが、ただの体験から、仏教の魅力に気付き人生を豊かにする行として一線を超えるのは、一般庶民からするとハードルが高いように思います。
「寺離れ」とよく言われますが、離れているのは民衆だけでなく、現段階ではお寺側(既存の参詣者も含めて)も受け入れ態勢ができてません。ウェルカムな態勢が整っているという面では、新興宗教はとても優れています。僕はもう慣れましたが、お寺に知らない若い人がいるだけでアウェイ感がものすごいです。普通なら、二度といけなくなる空気でしょう。なにか、そのあたりが打破できたら、僕の同世代の仲間を誘ってお寺で法話を聞いてみようという会があったら面白いと思うんですよね。そういう働きかけを、少しずつ具体化できたらいいなと思います。

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