歎異抄に聞く

本日は、本願寺小樽別院さまにお邪魔してきました。
聖典講読会の公開講座で、大阪からお越しの天岸浄圓先生のお話を聞きたく足を運んだのでした。講題は「歎異抄に聞く」。本願寺派では歎異抄を取り上げてお話をする方が少なく、しかも、歎異抄「を」ではなく、歎異抄「に」というあたり、なんだか大谷派の先生みたいで、これはちょっと今まで聞いたことがない面白い話が聞けそうだなと思って、期待をもって小樽へ向かいました。知り合いの方もたくさんいる中、うちで仕立、修理をした念珠を使ってくださってるのを見れるのはうれしいものです。

歎異抄と言えば、非常に理解するのが難しい文章で有名で、それ故「危険な書物」と形容されることもあるほどで、長い間封印されていたことでも有名です。現在は、原文だけでなく、現代語訳、解説本など、歎異抄にまつわる様々本が出版されています。
日本仏教各宗派の教えを少しずつ勉強していくと、浄土真宗の教えというのは特殊な考え方をする部分があり、その特殊な部分の集大成が歎異抄に集約されているような気もします。しかし、よく言われる通り、とても凡人には理解しがたい文章ばかりです。その不可解さが神秘的な魅力となって、世界中で翻訳されて愛読者が居ることも事実です。

摂取不捨、悪人正機という考え方がどうしても腑に落ちず、過去に聞いたご法話をつなぎ合わせても、どうしてもつながらない部分があったのです。一つの宗派に限定して考えても、やっぱりそれぞれ考え方の違う先生が居るのだろうか・・というところで、無理やり納得していました。しかし、今日は、非常にわかりやすくひも解いてくださり、有耶無耶だった部分の雲がやっと晴れたようでした。もし、自力聖道門の先生がここまで聞いたら、どう切り返すかというのは機会があればぜひ聞いてみたいところです。いつか、そんなお話や本に出合えるかもしれません。

仏様の慈悲は、よく母親の愛情に例えられることがあります。しかし僕は、失礼かもしれませんが、仏様の慈悲を例えに、親としての自分を振り返ることが良くあります。子育てとはまさに摂取不捨、悪人正機の世界で、よくできた子供だけ選んで育てるわけには行きません。うちであれば3人の子供を選ぶことなく、捨てることなく、我が身の痛みに換えてでも救わずにはおれないと思うのは、親として当然のことだし、もし、3人の中に人の道をそれるような子がいれば、それこそ手遅れになる前に、真っ先に救おうと思うのであります。
「世界に一つだけの花」は素晴らしい歌ですが、近年はオンリーワン教育をはき違えてしまう親が多いような気がしています。負けてもいいんだよ、無理しないでね、そのままのあなたでいいんだよ。というキラキラワードばかりが先行してしまい、それは努力しなくてもいい、改善しなくてもいいという意味では本来ないんだと思います。そんなキラキラ環境で子供時代を過ごし、社会人になったら、とつぜん出来の悪い人間は収入で区別される厳しい経済社会に放り出されては、仕事が続くはずもないし、いつまでも自立できない子が多いというのもうなずけます。
この先、勉強ができなくても、運動オンチでも、不良になっても、絶対に我が子を見捨てることはありません。でも、その愛情をはき違えることなく強く生き抜ける子供たちになって欲しいなと願い、そんな子育てがしたいと思えた、今日のお話でした。

ちなみに、途中寄ったラーメン屋さんでは「麺壁九年」の文字が!これは達磨大師が9年間座禅したという「面壁九年」をもじったんでしょう。ラーメン屋さんが何年目かはわかりませんが、とても美味しかったので一途に頑張ってほしいです。

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