「最近」念珠屋が考えていること その1

このブログのタイトルは

ブログのタイトルは「念珠屋が考えていること」なんです。

念珠の知識的なコンテンツはまだまだ書き切れないことが大量にありますし、そういうマニアックな読者も沢山いらしゃるようで、今後もチェックして欲しいとは思っています。

でも、たまには悶々と考えていることを徒然書くのもいいかなと思っています。

多くの人が仏教と出遇えますように

念珠だって百人百色

世界は実に多様化していて、念珠というとても極限定された世界だけを見ても、それぞれの方の好みも、念珠を持つ意味も、購入の予算も大きく違います。「十人十色」という言葉は昔からありますが、「百人百色」でも言い過ぎではないと思います。

ですから、「こういうタイプの念珠だけをこだわって作っています」とか、「高級念珠に特化しています」というのは、ビジネススタイルとしてはありかもしれませんが、ビジネスモデルになり得るかというとマーケットが小さすぎるのです。

うちの場合は、こんなのつかって大丈夫なの?って言われるような斬新で派手な念珠も、おじいちゃんが使っていたような古めかしい念珠もつくります。価格でいうと、千円のものもあれば1万円のも10万円のもあります。(100万円クラスはさすがに取り扱ったことがありません。)

安いのは作りが悪いとか、気持ちも値段相応などの理由で安物はダメだという方もいますし、逆に、予算の優先順位が低かったり、道楽で念珠を見せびらかすのはどうなんだということで高いものを嫌う方もいます。

でも、どんな念珠であれ、それが修理であったり、わからないことを相談したいというだけでも、1連の念珠が多くの人を仏教に近づけるご縁になり得ると思っているのです。

お坊さんになれば?

というのは、よく言われることです。

しかし、上座部仏教の長老のように、自身が覚りに近づくこともできなければ、大乗仏教の僧侶のように衆生を導く器量もありません。
親鸞聖人という方が、「非僧非俗(僧侶でも俗人でもない)」と名乗ったのは興味深い表現ではありますが、僕の場合は非僧非俗でもありません。

どう考えても100%俗人でありながら、不思議と「あぁ、ブッダに遇ったな」という実感だけはあるのです。

これは、仏教徒の宣言ではありません。むしろ今でも疑っています。純粋な信仰とは、ちょっと異質の想いです。

またそれは、スピリチュアルな体験を語りたいわけではありません。生きにくい人生をより生きにくく生きていた自分が、仏教との出遇いを境に楽になったのです。

仏教はしばしば薬に例えられますが、良い人生になる特効薬ではありません。抗生物質のように特定の悪いものを取り除く効果もありません。薬で言うなら漢方薬のようもので、長く続けていると、少しずつ体質が改善してくるようなものです。それに漢方薬の種類は千差万別で、どれが自分に合うかも、そう簡単にはわかりません。八万四千とも言われる教えを、そのように感じています。

宗教は飲んでも飲まれるな。そんな風にいつも思っていますので、宗教者には向いていないのです。

軸足

結局、一介の念珠屋がなにができるのかなと考えたときに、念珠を作る、直すということに収束してきます。

楽しくもあり、食うためでもあり、色々なことは試していますが、そこに軸足の置ける大義名分がなければ、いずれ続けるに値しないことになりえます。

思考の途中経過は省略しますが、「なぜこの1連の念珠をお渡しするのか」といえば、表面的には多義的になる場合もありますが、軸足は、「仏教とご縁がありますように」という願いに通じています。